父親であり、最も身近な指導者だった。広陵高野球部OBで名将・中井哲之監督の教えが、家庭環境の軸にあった。9年間、一日も休まなかった取り組みが、宗山塁を育て上げた。 取材・文=岡本朋祐 写真=家族提供 写真=矢野寿明
広陵高での3年間が基礎
今秋はシーズン序盤のヤマ場となった、第3週の早大戦を神宮球場で観戦した。明大は同カード、2勝1敗で勝ち点を奪取。宗山塁はこの3試合で、12打数8安打と大当たりだった。父・伸吉さんは母・香代さんの横で、まるでコーチ目線で視察していた。
「ヒット数は落ちないので、数字が上下する打率は、あまり見ないようにしています(苦笑)。『毎シーズン、20安打を打て!』と言っているんです。すべてが順風満帆とはいかない。どこかで、つまずくことも必ずあります」
伸吉さんの予言は的中した。早大戦までの開幕2カードは19打数11安打、打率.579と絶好調も、残り3カードは苦しんだ。34打数7安打で、最終的に打率.340でシーズンを終えた。明大は85年ぶりのリーグ4連覇を逃し、宗山の打撃内容がチーム成績にも直結したが、苦い経験を糧にする器がある。
3年秋までに通算94安打。2年春に自己最多24安打を量産したことがあり、残り2シーズンで明大の先輩・
高山俊(今季まで
阪神でプレー)の持つ131安打のリーグ記録更新も夢ではない。
「目指すならば、高山選手の記録を塗り替えてほしいですが、そこがすべてではありません。安打数は積み重ねた結果なので、ヒットを打てば、次のヒットと、どん欲にプレーしてほしい」
2003年2月27日、
広島県三次市で生まれた。2歳上には姉・楓さんがおり、今年4月から社会人となり、大阪で働いている。長男・塁の名前の由来は「野球への思い。それしかないです」と伸吉さんは明かす。
父は筋金入りの野球人である。三次中時代は、右腕エースとして活躍。高校進学の際は、県内の強豪校で広陵高、広島商高、広島工高で悩んだ。練習見学をした上で、広陵高へ進んだ。入学した4月、中井哲之氏がコーチから監督に就任。熱血指揮官の下で3年間、男を磨いた。現在も父親的な存在として慕われているが、当時は寮で寝食をともにする24時間指導で、精神面をたたき込まれた。
「30年以上前の話ですから、いろいろありますよ(苦笑)。練習の厳しさというより、いかに、毎日を無事に過ごすかを考えていました。今と変わらず、清風寮は学校敷地内。外に出られるのは3カ月に1度……逃げる勇気もありませんでした。今、振り返れば、大切な3年間。基礎になっています」
2年春のセンバツ優勝時はスタンド応援組。外野手の定位置を狙う上で「塁に、これだけは勝てるんです(笑)」と、50メートル走6秒0の脚力がストロングポイントだった。2年秋の県大会は外野手(背番号17)で初めてベンチ入りし、代走・守備要員でスタンバイ。中国大会は登録から漏れ、翌春のセンバツもメンバー15人に入ることができなかった。かねてから蓄積疲労で右膝を痛めており、4月に半月板の手術を受けた。この時点で、選手の道は断念。グラウンド整備など雑用を率先し、ノックの補助、また、下級生の指導係も行った。中井監督はレギュラーよりも、チームのために献身的に動く控え選手を大切にするのがポリシー。伸吉さんは頼られる存在だったという。
卒業後は地元・三次市役所に勤務。草野球を楽しむ日々を過ごしていたが、長男・塁が小学生に上がると、生活リズムは一変したのである。
別の意味での「特別扱い」
父子で幼少時からの遊びと言えば、野球だった。強制したことはないが、塁から「野球チームに入りたい」と言ってきた。素直にうれしかった。
「自分の野球に悔いはない。実力が伴っていませんでしたので……。塁に関しては、目指せる可能性が少しでもあるならば、やってくれたことに越したことはないと考えていました」
ただ、一つだけ条件があった。
「毎日、練習することを約束に、野球を始めさせた。そこは、徹底しましたが・・・
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