マリーンズのファンはなぜ、マリーンズに夢中になるのか。人によって理由が違うのは当然だが、ファンとマリーンズとの歴史が、現在の状況を形作ったという側面はありそうだ。千葉移転から32年。マリーンズが築き上げた「物語」を駒沢大学の伊藤茂樹教授が考察する。 文=伊藤茂樹(駒沢大学教授) 黒木知宏が9回裏に同点にされて結果的に17連敗目となった試合[1998年7月7日のオリックス戦=神戸]の左翼スタンド
日本プロ野球において独特の人気を持つ
千葉ロッテマリーンズ。日本シリーズには13年も出ていないし、強固な地元意識に立脚しているわけでもない。観客動員も目立って多いとは言えないが、ファンは他チームと違った特有の「熱さ」を持ってチームを支えている。
この人気はどういう性質を持ち、どのように形成されたのだろうか。これを解き明かし、そこから見えてくるものについて考えてみる。
そこでキーワードになるのは「物語」と「参加」、そして「ファンベース」である。
マリーンズの「歴史」
千葉県を保護地域とする初の球団として千葉ロッテマリーンズが誕生したのは1992年シーズンで、今季が33年目となる。川崎球場を本拠地としていたロッテオリオンズが、幕張新都心に建設された新球場・千葉マリンスタジアム(現ZOZOマリン)への移転を
ヤクルトスワローズと争った末の誕生だった。
川崎は78年から91年までの本拠地で、2シーズン制の前期を制したことが2度あったがやがて低迷し、老朽化した川崎球場での観客動員には苦労していた。そこで起死回生をかけて千葉に移転し、チーム名も創設以来のオリオンズからマリーンズに変更。ピンクを基調にした斬新なユニフォームや海辺の球場をアピールしたプロモーションなどで新たなファン層の獲得を狙った。
実際、92年前半は観客が詰めかけ、チームも一時首位に立つなど健闘したが、終わってみれば最下位。93年、94年も5位と低迷は続いた。
変化が現れたのは95年だった。日本球界初のゼネラル・マネージャーとなった
広岡達朗は、35歳の若さでテキサス・レンジャーズの監督に就任しチームを立て直した実績のあるボビー・バレンタイン(当時44歳)を監督に招聘。バレンタインによる選手の意識改革と
フリオ・フランコら外国人選手の活躍もあってチームは生き返り、10年ぶりのAクラス(2位)でシーズンを終えた。オリックスの本拠地での優勝決定を阻んだ9月の神戸での3連勝はチームの成長を物語っていた。
しかし、GMと監督の間に当初からあった確執のためシーズン終了後にバレンタインは解任。
翌96年は後任の
江尻亮監督の下、5位に「逆戻り」する。広岡GMも解任され、その後の
近藤昭仁、
山本功児両監督もBクラス脱出は果たせず、再び低迷の時代に戻る。98年に日本プロ野球記録となる18連敗を記録したのはこの時代の象徴的な出来事だった・・・
この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。
まずは体験!登録後7日間無料
登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。
登録済みの方はこちらからログイン