1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 黄金期の阪急から“暗黒期”のヤクルトへ
ベネズエラから来日した阪急黄金時代のキーマンが、1983年に“暗黒時代”ともいえるヤクルトへ移籍。首位を争うことが当たり前だったパ・リーグのチームから、セ・リーグの最下位を争うかのようなチームへ。勝敗だけでいえば、天国から地獄。それでも結果を残したのは、強打と巧打、さらには勝負強さも兼ね備えたマルカーノだ。
80年代の阪急では
ブーマー、ヤクルトではホーナーのような長距離砲のインパクトこそないものの、外国人選手の話題になれば必ず挙がってくる歴代きっての優良助っ人の1人。スマートな体型ではなかったにもかかわらず、俊敏な動きで阪急時代に4度のダイヤモンド・グラブに選ばれた二塁守備も健在で、低迷を続けるヤクルトを攻守で支え続けた。
来日は75年。阪急には守備力を買われての入団で、名遊撃手の
大橋穣と鉄壁の二遊間を形成した。うれしい誤算は打撃で、4年目の78年には94打点で打点王。来日した75年に阪急はリーグ優勝、初の日本一に。以降リーグ4連覇、3年連続で日本一となっていて、阪急黄金時代の中でも、絶頂期といえる時期。そんな栄光を呼び込んだ存在だった。助っ人ながらムードメーカーにもなり、
「雨、イイ。野球、チューシ」
など、カタコトの日本語でチームメートを笑わせることも少なくなかった。79年には自己最多の32本塁打を放ったが、かつての指揮官だった
西本幸雄監督の率いる近鉄に、阪急は優勝をさらわれる。黄金時代の功労者だったが、翌80年から長打力に陰りが見え始めると、82年オフに自由契約となる。そのオフの阪急は、やはり功労者だった
加藤英司もトレードで放出しており、世代交代を一気に加速させようとしていた時期だ。
新天地のヤクルトで迎えた83年、開幕戦となった4月9日の阪神戦(甲子園)に「五番・二塁」で出場すると、1対1の同点で迎えた7回表に
小林繁からセ・リーグ初安打となる決勝の3ラン本塁打を放つと、打棒は完全復活。そのままクリーンアップを担って、最終的には25本塁打、78打点とチーム2冠の結果を残す。そのオフには主砲の
大杉勝男が引退。翌84年には四番がメーンとなり、本塁打こそ減らしたが勝負強さは維持し、打率も打点王の78年に続く3割に到達した。
だが、そんな打棒もチームの起爆剤にはならなかった。孤軍奮闘の83年は最下位、84年は3年連続の最下位を免れるのが精いっぱいの5位。開幕から1度も最下位を抜け出せなかった85年には出場も95試合にとどまり、オフに自由契約となって、現役を引退した。
スカウトとしてサンチェを発掘も……
「フライにしても、おいしくない」
フライといっても、打球のフライではない。故郷のベネズエラではバナナを揚げる料理がポピュラーのようで、日本産のバナナが小さすぎることだけは不満だったそうだが、うどんやカツ丼など、日本食が好き。自身いわく、ルーツは日本人で、曾祖父は「トモウラ」という名前だったという。自分の名前を「丸河野」と書くこともあった。
阪急時代の77年6月、練習中に球を左目に当ててからは、プレーではメガネが手放せなくなり、それがトレードマークに。オフは故郷のウインター・リーグでプレーしていて、たびたびメジャーからも誘われたが、すべて断ったという。通算1418安打は、当時の外国人選手では最多だ。85年オフ、帰国の際には、
「ヤクルトは、ずっと負けてばかりで悔しかった。でも、日本人が、みんな親切。一生、忘れない」
と日本語で話し、涙を流した。
そんな好漢は、のちに巨人のスタッフとしても活躍する。中南米担当のスカウトとして、
王貞治監督の“勝利の方程式”を担うことになる
サンチェを推薦。通訳として巨人のユニフォームを着た。その一方で、スタッフとして働きながらもトレーニングを続けて、現役復帰を目指していたという。だが、90年11月に肺ガンのため死去。39歳の若さだった。
写真=BBM