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プロ野球回顧録

堀内恒夫G助っ人回顧 MLB実績は抜群! ジョンソン&ライト

 

川上哲治監督のV9時代の巨人は外国人選手不在だったが、長嶋茂雄監督が就任した1975年にジョンソンが入団。当時のエースとして、その後は兼任コーチ、専任コーチ、コーチ、監督として長年にわたり巨人のユニフォームを着た堀内恒夫氏に、「海を渡ってきたチームメートたち」について思い出を振り返ってもらった。

「ジョンソンのようなすごい選手が来るのかと驚いた」


メジャーのスーパースターだったジョンソン


 V9黄金期は「巨人軍は強くあれ、紳士たれ、アメリカ野球に追いつけ、そして追い越せ」というプロ野球の父・正力松太郎の遺訓が強く反映され、監督・川上哲治の下、「純血主義」でチームが編成されていた。「オール・ジャパン」で「日米決戦」に挑む――。それが球団創設時から巨人に与えられた使命だった。

 その掟を新しい時代の到来とともに破ったのが、長嶋茂雄である。長嶋が現役引退後、自らの後釜として獲得したのが、巨人初のメジャー・リーガー、デーブ・ジョンソンだった。

 ジョンソンは、1971年オフに開催された日米野球で世界最強軍団オリオールズの一員として来日。強打の二塁手として華々しいプレーを披露している。メジャー在籍中にゴールド・グラブ賞を獲得し、オールスターにも出場。ブレーブス時代の73年には、二塁手としてメジャー史上最多(当時)の43本塁打を放ったキャリアを誇る。その超大物が75年、長嶋の監督就任1年目に来日したのだ。

「最初はなんで、ジョンソンのようなすごい選手が来るのかと、驚いたけどね。経歴は申し分なし。でも、日本に来たときには肩が壊れていたね。長嶋さんが辞めて、サードがいなかったから、その後釜として呼んだわけだけど、彼の本職はセカンド。サードをやらせると、肩の弱いのが目立った。ジョンソンが来た翌年はレフトの高田(繁)さんがサードへコンバートされて、ジョンソンがセカンドへ。自分の本職だから、守備はうまかったね。捕ってから投げるまでが速かったから、肩なんて弱っていても大丈夫だった」

 来日1年目、開幕直後に来日したジョンソンは、日本の野球に馴染めず、期待を大きく裏切った。91試合に出場して、打率.197、13本塁打、38打点という不本意な成績に終わり、球団史上初の最下位に転落した長嶋巨人の「戦犯」とまで酷評された。だが、来日2年目は、二塁手として、「水を得た魚」のごとくよみがえり、108試合、打率.275、26本塁打、76打点の好成績を残す。日本でもゴールデン・グラブ賞(当時はダイヤモンド・グラブ賞)を獲得し、メジャーの大物としての実力を発揮するのだった。

「すぐにカッとなって短気を起こす」


長嶋巨人の初優勝に貢献したライト


 76年のシーズン途中、長嶋巨人にもう1人のメジャー・リーガー、クライド・ライトが加わる。来日1年目、ライトは8勝にとどまるが、スクリューボールを武器に防御率3.22をマーク。長嶋巨人の初優勝に貢献する。阪急との日本シリーズでは、第5戦に自ら2ランを放ち、勝利投手になった。来日2年目は11勝を挙げ、連続優勝に貢献するが、フロントと対立するなどして、翌78年シーズン途中で退団。現役引退後は実業家に転身し、大成功を収めている。

「こいつは、本当のヤンキーだったよ。昔のアメリカのピッチャー。打たれて熱くなり、ケンカ早くなる。それでも、人間は悪くなかったんだよ。私生活は極めて真面目で、野球以外ではそんなに武勇伝はない。酒もあまり飲まなかったし。でも、アメリカへ帰ってから、最後はアル中になったんだって。分からないもんだね。

 彼はバッティングが良かったから、来日したとき、手に提げていたのが、てっきりバットケースだと思ったら、釣竿だった。そんな笑い話がある。釣りをやるくらいだから、けっこう気は長いはず。でも、すぐにカッとなって短気を起こす。だから、クレイジー・ライトっていうあだ名が付いた。ぶつけられたら、やり返す。ライトは球も速かったし、スライダーも良かった。コントロールも良くて、真っ直ぐも150キロは出なかったけど、その手前まではきていた。ライトはアメリカでメジャー通算100勝を挙げていた。来日した歴代投手の中ではトップクラスだと思うよ」

写真=BBM
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