自由契約2度も最後はFA移籍
投げても投げても壊れない投手が“鉄腕”と表現されるのは近年も変わらない。逆に、あまり最近は聞かれなくなったが、かつては故障を繰り返す投手は“ガラス”にたとえられた。故障は投手の運命を左右する。“鉄腕”が酷使や疲労、加齢などにより“ガラス”程度の強度にまで落ち込んでしまうことは少なくない。一方で、“ガラス”が“鉄腕”ばりの頑強さを維持することは困難だ。だが、これをやってのけた右腕がいた。故障を繰り返しながら20世紀から21世紀にまたがって4チーム、21年もの長きにわたって投げ続けた加藤伸一だ。
ドラフト1位で1984年に南海(現在の
ソフトバンク)入団。当時のパ・リーグには同い年で
西武に
渡辺久信、
日本ハムには
津野浩とファッショナブルな右腕がいて、“19歳トリオ”と人気を集める。渡辺も抜群の身体能力を誇る右腕だったが、とはいえ加藤も渡辺も“鉄腕”に漂う武骨な雰囲気はなかった。南海の低迷期でもあり、先発の一角を担いながら負け越しが続いた加藤は、チームがダイエーとなった89年にダイエー初勝利を含む2ケタ12勝を挙げる。
だが、翌90年に右肩を痛めて離脱、92年に手術。復帰した94年には998日ぶりの勝ち星もあったが、翌95年も一軍登板なしに終わって、オフには自由契約に。新天地の
広島では1年目から先発で9勝、カムバック賞を贈られた。98年には8勝も、オフに自身2度目の自由契約。3チーム目のオリックスでも移籍1年目から先発を任されて6勝、リーグ最多の3完封も光った。2001年には2度目の2ケタ11勝。そのオフ、最後の移籍はFAだった。このときの移籍1年目は2試合の登板に終わったが、2年目の03年に先発を務めて6勝を挙げている。
加藤が去ったダイエーは20世紀の最後に黄金時代へ突入、移籍した広島では黄金時代は過去になっていた。オリックス移籍は連覇から3年後。FAで近鉄を選んだのは「優勝の可能性があるチーム」(加藤)だからだったが、近鉄は加藤がオリックスでFAを宣言した01年が最後のリーグ優勝だった。04年オフにオリックスと合併して歴史を終えた近鉄とともに、加藤もユニフォームを脱いでいる。
文=犬企画マンホール 写真=BBM