週刊ベースボールONLINE

追悼・中西太

「オリックス時代は、どういうバッターにどういう指導をすればいいかが分かっていた。ワシの指導者人生の集大成と言っていいのかもしれん」/追悼・中西太

 

よくブライアントに「辛抱じゃ」と日本語で言っていた


中西さんと仰木監督[右]


 5月11日に亡くなった元西鉄の中西太さん。生前、大変お世話になり、何度となくインタビューもさせていただいた。時々にはなるが、それを紹介していこうと思う。

 今回は2019年、イチロー引退時のインタビューから近鉄、オリックスコーチ時代の話を抜粋し、再録する。

◆◆◆

 ワシが近鉄のコーチになったのは、昭和60年、1985年だ。監督をしていた仰木彬君に誘われてだった。仰木君は、西鉄時代、ワシが監督、彼がコーチの時代もあったが、ワシは日本ハム時代に三原脩さん(元西鉄ほか監督。中西氏の義父)に監督を首になったからね。

 その後、仰木君も近鉄を退団し、94年からオリックスの監督になったのだが、1年を終えた後、「コーチとして助けてもらえないか」と言ってきた。あの年はイチローの活躍はあったが、優勝はできなかった(2位)。次は、なんとしても優勝、と思っていたんだろうね。

 おそらく近鉄のときの物語を、と思ったんだろう。ワシが行ったときの近鉄は、打撃はいいが、全体に粗っぽいチームだった。一番印象深いのはブライアントだね。

 88年途中、デービスが退団した後、代わりに取った選手で、力任せで三振の多い選手だったが、ワシは日本で活躍するにはバットコントロールが大事という話をし、細いバットを使ってシャープなスイングの練習をさせたり、トスバッティングでもいろいろな角度から速い球、遅い球を投げた。

 長いときは40分くらいかな。大変だったと思うが、日本で活躍しようというハングリーさがあったからよう頑張ったよ。

 これは西鉄の監督をしとった時代からだが、通訳なんていらない。ベースボールは用語が英語やしな。英語、日本語、さらにはゼスチャー。通訳がいると、どうしても相手から目を離し、そっちを見る。それでは信用してもらえない。よくあいつに「辛抱じゃ」と日本語で言っていたら、あとで成功の秘訣を聞かれ、「シンボウ」と答えたらしいね。

 近鉄は世代交代の時期だったから、仰木君もワシも情熱をもって選手に教えた。真摯な気持ちで汗をかいて、恥をかいて、一生懸命やるのが一番大事。それが選手にも伝わる。

 守備は結構、うるさく言った。外野からの返球に際しては、真喜志康永をショートでカットマンに育て、捕手は梨田昌孝有田修三がいたところで、若い山下和彦古久保健二光山英和、サードには金村義明を入れたりした。

 それで89年に優勝。ブライアントの4連発もあった。

 ワシは体を壊して次の年でやめて、東京に戻ったが、魅力的な、いいチームができた、と思う。

オリックスでやったのはしつけ


 オリックスでは全体を見てほしいといわれ、ヘッドコーチになった。ただ、ちょうど大腸にポリープが見つかって、1月12日に予定していたスタッフ会議には出ず、手術。しばらく休んどった。そしたら17日にあの阪神・淡路大震災だ。行っていたらどうなったのかな。

 もうええやろと、コーチの話も一度断ったんだが、なんとかやってほしいと。

 沖縄・宮古島のキャンプからの合流だったが、イチローは前の年に、210安打をしていて、すごい人気だった。彼目当てのファンがたくさんいて、キャンプから担当者がついて別行動。仰木君とワシは、ホテルから半ズボンで球場に向かって、警備に止められていたのにな(笑)。その子も監督とヘッドコーチと聞いてびっくりしてたよ。

 当時のイチローは、まだまだ子どもだったが、いろいろな指導者との出会いもあって、振り子打法という自分のスイングが出来上がり、相当な自信もあった。シャープな日本刀で斬るようなスイングだったね。低めを拾うように打つのもうまかったが、高めが弱点ではあった。

 ただ、彼のバッティングに対し、ああしろこうしろといったことは一度もない。私が近鉄時代に教えた新井宏昌君が打撃コーチでいたしね。

 彼は少し体が硬いが、悪いことだけではなく、それでスイングの際の中心線が崩れない。柔らかく体を使いたいということでケアもしていた。トレーニングの後、だいたいの選手はシャワーだけだが、一人で風呂にゆっくり入って、出たら入念にストレッチをしていたからな。

 ワシがオリックスでやったのは、いわゆるしつけだね。怒ったわけじゃないが、基本について、口うるさく言い続けた。たぶん、選手は、ワシのことを、うるさいオヤジだなと思っていただろう。特に、イチローあたりのできるやつはな。

 近鉄時代と同じように、特に、守備についてはうるさくいった。オリックスの外野は、本西厚博田口壮、そしてイチローといて日本一だった。ただ、イチローは動き、肩はいいけど、時々、送球がシュート回転になったり、ばらけた。ホームにノーバウンドと思うと、なおさらそうなる。だから練習では返球をカットマンに正確に投げるようにうるさく言った。

 いいコースにいい球が来たら、カットマンがスルーすればいいんだしね。1球でやめさせたこともある。練習で何度投げても悪い形では仕方がない。いい球が来たら、「それでよし!」。打撃も同じだよ。

 バッティングでは、新井君が全体の指導をして、ワシは、守備はいいが、非力な大島公一馬場敏史、あとはニールやDJを見ることが多かった。ブライアントのときと同じよ。細いバットを使ってシャープなスイングをさせたり、いろいろな形でトスを上げたり。体が小さくても内転筋を使ったスイングができていれば球は飛ぶ。あの馬場がGS神戸のバックスクリーンにぶつけたこともあるくらいだからな。

 これまでの蓄積もあって、オリックス時代は、どういうバッターにどういう指導をすればいいかが分かっていた。ワシの指導者人生の集大成と言っていいのかもしれんね。

 あとは、いつも全体を見ていた。それで、要所で声をかける。だから「あの人はいつも自分を見ているんだ」になる。逆に選手も見ている。ワシがトスバッティングでボールを体に当てたり、選手と一緒に汗をかき、泥にまみれてやっているのをイチローも見ていたと思うよ。

 最後はガンになって3年で辞めた。病気のことは誰にも言わんかったが、どこから聞いたのか、手術の後、田口だけが飛んできてくれたな。

 もともと3年と思っていた。ワシは西鉄時代、いろいろ球界に迷惑をかけたから、四国のお遍路ではないが、どの球団でも声がかかったら3年やって恩返しをしようと思っていた。

 近鉄の6年はもう、仰木君に頼まれたからやめられんかっただけさ。オリックスのコーチを終わった後、いつだったか仰木君が「中西さんには、いいしつけをしていただいた」と言っていたと聞いた。

 オリックスの3年間で優勝も日本一もできたし、ワシも楽しかった。しかも、あのときの若者、イチロー、田口が世界でこれだけの活躍をした。素晴らしいことだね。一番イチローの活躍を喜んでいたのは、間違いなく、仰木君だと思う。

写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング