長嶋監督が剛球に惚れ込み
来日1年目に16勝を挙げ、いきなり最多勝を獲得した
巨人という球団において、歴代の“助っ投”で最多勝は誰かというと、少し前置きが必要かもしれない。日本国籍ではないということでカテゴライズするなら、プロ野球が始まった1936年からプレーしていた
ヴィクトル・スタルヒンになるが、少年時代に帝政ロシアから日本へ亡命してきて、旧制の旭川中から巨人へ入団しており、戦後は別のチームでプレーを続けて通算303勝を残した右腕は、むしろ日本プロ野球のレジェンドといえる存在だろう。このスタルヒンを除けば、通算46勝を挙げた
バルビーノ・ガルベスが最多勝だ。
スタルヒンも剛球で鳴らした右腕だったが、これはガルベスも負けていない。若手時代のスタルヒンは荒れる剛速球で相手の打者を恐怖させたが、ガルベスは緻密に計算した上で、相手の打者が恐怖を感じるほどの内角に向かって容赦なく150キロを超える剛球を投げ込んだ。
メジャー・リーグには定着できず、メキシコや台湾を経て、テストを受けて入団した。「代理人にレンジャーズのトライアウトと言われていたが、(テストが)突然、巨人になって驚いた」とガルベスは語っていたが、その剛球に惚れ込んだのが当時の
長嶋茂雄監督。背番号も剛球にちなんで「59」に決まった。1年目の96年から鋭い眼光と殺気をはらんだ投球スタイルで16勝、チームメートの
斎藤雅樹と並んで最多勝に輝き、長嶋監督が「メークドラマ」と呼んだ大逆転リーグ優勝の起爆剤に。翌97年も12勝を挙げている。
「すべてのパワーを出して、威嚇するのも必要」と語っていたガルベス。しっかりと打者のデータを収集した上での「威嚇」だったはずだが、頭に血が上りやすい性格だったのも確かだ。98年7月31日の
阪神戦(甲子園)では不本意な結果で降板となると、判定に異論のあった審判に向かって剛球を投じる前代未聞のトラブルを起こして無期限謹慎に。ただ、のち解除されると、いきなり翌99年の開幕投手を任されて、ふたたび物議をかもした。結局、2年連続で2ケタ勝利には届かず、2000年は開幕から6連敗。外国人枠もあり、そのまま二軍がメーンとなって、オフに退団している。
写真=BBM