2020年まで母校のために尽力
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徳武定祐さん[享年86]の葬儀・告別式が11月22日、しめやかに営まれた[写真=BBM]
11月14日、悪性リンパ腫のため、東京都内の病院で死去した徳武定祐さん(享年86)の葬儀・告別式が22日、都内の斎場でしめやかに営まれ、多くの参列者が別れを惜しんだ。
徳武さんは早実で3年夏の甲子園出場。早大では主将だった4年時、1960年秋の早慶6連戦で四番・三塁として逆転優勝を経験した。卒業後は国鉄・サンケイ、
中日でプレーし、引退後は中日、
ロッテで指導者経験を積んだ。プロのユニフォームを脱いだ後は99年、早大で同級生(捕手)だった野村徹監督からの要請で、打撃コーチに就任。以来、應武篤良監督、岡村猛監督の下、14年まで後輩たちを指導してきた。19年1月1日、
小宮山悟氏が早大の第20代監督に就任すると、5年ぶりに現場復帰。20年まで、母校のため尽力した。
早大・小宮山監督が弔辞を述べた。
【弔辞】
ありがとうございました。
ご臨席賜る皆様それぞれが、徳武さんとの思い出が数多くあると思います。その思い出を一つひとつ皆様が思い返していただいて、故人を送っていただければと思っております。
6年前に早稲田大学野球部の監督を拝命した際に、早稲田のコーチを長く務められて、一時、離れていた徳武さんに「最後にもう一度、力を貸してください」とお願いしたのが、昨日のことのように思います。
快諾をいただき、学生たちに熱心に指導賜り、ありがとうございました。感謝の思いしかありません。
皆様方も同じく、いろいろと感謝されたことが多いと思います。その時に「最後、力を貸してください」とお願いをしました。
我々、早稲田大学野球部は明日から、明治神宮大会に臨みます。申し訳ありませんが、亡くなられたけれども、最後にまた、お力添えをいただければと思っております。
神宮球場のスタンドにいつもある姿が、この秋のシーズンは見つけることができずに、心配をしておりました。
早慶戦で一つでも勝てば優勝という状況になりながら、連敗を喫し、毎試合、スターティングラインアップを連絡差し上げるも、返信がなかったので、心配をしておりました。
結果、残念なことに、恐らく、もう意識がなかったのだろうと思います。ご家族からは(明大との)優勝決定戦に勝って、春秋連覇を報告して「喜んでくれました」という連絡をいただいて、最後に神宮大会に勝って、日本一で送り出したいと思っておりますので、もう一度、申し訳ありませんが、最後にお力添えを、よろしくお願いいたします。
残念です。
本来ならば、神宮のスタンドから見届けていただけるものだと思っておりましたので、こうしてもう、お亡くなりになってしまったので、かける言葉もございません。1週間経っているのに、まだ信じられない思いです。
どうか最後、徳武さんの愛した早稲田大学野球部が日本一で、今年を締めくくられますように、最後の最後、ワガママを言います。
お力添えを、よろしくお願いいたします。
感謝申し上げます。
ありがとうございました。
徳武さんがいつも強調していたこと
3分18秒。故人との関係性の深さが分かる弔辞だった。その後、葬儀委員長を務めた岡村猛氏が喪主に代わり、あいさつした。岡村氏は現在、東京六大学野球連盟の理事で、11年から14年まで早大の第18代監督を務めた。一部を抜粋する。故人とのエピソードを明かす上で、現役部員にも通じる学びがあった。
「故人は家族を愛し、愛情を注ぐ一方で、野球に対して、ほとばしるような熱い情熱を傾けました。故人より教えていただいた言葉が、走馬灯のように思い出されます」
徳武さんはいつも、強調していたことがある。
「早稲田大学野球部は、強くなければならない。しかし、強ければいいというものではない。早稲田は野球界のど真ん中で心柱となり、気品、品格のあるチームでなければならない。このような教えの一つひとつ、いやすべてが早稲田野球の神髄でございました。今後はこの故人の遺志を小宮山監督が引き継ぎ、強い早稲田、品格のある早稲田をつくってまいります。皆様には『小宮山・早稲田』への格別のご支援を、心より、お願い申し上げます」
心にグッと響く故人の言葉から、学生たちは何を感じるのか。早稲田大学野球部は1901年創部。諸先輩が築き上げてきた伝統と歴史を重く受け止め、神宮球場で初代監督・飛田穂洲氏の教え「一球入魂」を貫くだけである。
文=岡本朋祐