「杉浦君はきれいなフォームで、すべてがバネ仕掛けのようじゃった」(中西)
昨年2023年に亡くなられた元西鉄ライオンズの中西太さん。このたび怪童と呼ばれた中西さんの伝説、そして知られざる素顔を綴る一冊が発売されました。
書籍化の際の新たなる取材者は
吉田義男さん、
米田哲也さん、
権藤博さん、
王貞治さん、
辻恭彦さん、
若松勉さん、
真弓明信さん、
新井宏昌さん、
香坂英典さん、
栗山英樹さん、
大久保博元さん、
田口壮さん、
岩村明憲さんです。
今回は1958年、南海・
杉浦忠さんとの話を抜粋します(一部略)。
1958年オフ、日米野球のさなか、呉越同舟、中西太と
稲尾和久が南海の杉浦忠、
野村克也と食事をしていたときだった。
酒が進むと、普段は物静かな杉浦が完全に酔っぱらって、「おい、太、この野郎よくも打ちやがったな。来年は必ずかたきを取るからな!」と目を据わらせ、絡んできた。
杉浦は中西より年下。ふだんは「中西さん」か「太さん」である(このとき稲尾にもだいぶ絡んだが、ここでは触れない)。
引退後の取材で、杉浦が悔しさたっぷりに振り返ったのは、9月27、28日の平和台決戦だった。南海は西鉄と一時は11ゲーム差があったのを、わずか勝率6厘差に詰められ、互いに負けられない戦いとなっていた。
杉浦は初戦には下痢をしながらも延長10回を投げ抜き、0対0で時間切れ引き分け。翌28日も先発したが、初回いきなり一死一、三塁のピンチを招く。
ここで打席に入った中西への初球は、自信を持って投げ込んだ内角のストレートだった。中西がこれをとらえるも当たりが低く、杉浦は三塁ライナーと思いホッとしたが、打球は浮かび上がるような軌道で三塁手の頭を越え、さらにぐいぐい伸び、レフトスタンドに届いてしまった。
「私は現役時代、数多くのホームランを打たれたが、この一発だけは今でも忘れていない。地面をはっていた打球が、外野芝生のところからグーンとホップしていったのだ。当時は牛革製のボール、バットも現代のように良質のものではない。飛ばないボールと飛ばないバットで、私の速球がどうしてあんな軌跡を描いてスタンドに消えていったのか、いまだに信じられない」
この回途中で降板。試合は中西の2発目の2ランもあって西鉄が7対2で勝利し、首位に浮上した。
杉浦にとって中西は別格の存在だった。ふだんグラブから出す人さし指を中西のときだけグラブに入れていたとも明かす。「投手ライナーでグラブがはじき飛ばされないためと、身の危険を感じたから」だった。
杉浦の中西評をもう少し続けよう。
「中西さんがウエイティングサークルに立ったときから脅威を感じた。バットの素振りをするときのバットの空を切る音がブンブンとうなりを生じて、遠くマウンドにいる自分に聞こえてくる。目の前の打席に入っている打者と相対しながら、ウエイティングサークルにいる男の単なる素振りに威圧された」
中西がネクストで1キロのマスコットバットを2本、3本とまとめてビュンビュンと振り回すのは有名だった。「投手を威嚇するためですか」と聞いたことがあるが、「そんなわけはない。体を温める準備運動や。
イチローと同じよ」と答えた。
打席でくねくね体を動かし、バットとお尻を揺らす姿はユー
モラスにも映ったが、それもまたパフォーマンスではない。体を柔らかく使い、余計な力を入れないためのルーティンだった。
中西の杉浦評はこうだった。
「杉浦君はきれいなフォームで、すべてがバネ仕掛けのようじゃった。直球と分かっていても打てんかったからね。でもな、杉浦君が出てきたのは、もう終わりのころじゃからね。それより(兼任)監督時代(1962年以降)の印象が強いんだ。稲尾君と2人が先発すると、なかなかどちらも点を取れなくてな」
当時の中西は25歳。それを「終わりのころ」と言った。