若き野村克也が目標にした伝説の大打者だ。現役時代はホームランバッター、兼任監督で1度の優勝と似たところもある。ただ、現役引退後の軌跡は好対照。監督として一流を極めた野村氏に対し、コーチとして一流を極めた人物だ。 
1957年パ表彰式。左から最優秀防御率、最多勝の稲尾[西鉄]、首位打者の山内[毎日]、本塁打王の野村[南海]、打点王の中西[西鉄]、新人王の木村保[南海]
ライバルチームの四番
この間、1月にヤクルトのOB会で会ったばかりだった。彼は初めて出席したんじゃないかな。車イスではあったが、それでも、しゃべるときはしっかりしていた。
そういえば、なんでなのかな。2月11日の夜、たまたま夢に野村君が出てきた。それで、朝、テレビを見ていたら亡くなった、と。奥さんの沙知代さんと同じ心臓の病気だったらしいね。
野村君は昭和29年(1954年)にテスト生で南海ホークスに入団した。私より2つ下で、試合に出だしたのは31年からだったと思う。それで翌32年にホームラン王になった。その前の年までの4年間と翌33年は私がホームラン王だったけど、彼は年下だし、あまりライバルと思ったことはないな。私がそう思っていたのは、山内一弘さん(毎日ほか)だけだよ。ただ、南海は西鉄が優勝して選手権に進むには、絶対倒さなければならない相手。伝統がある強いチームで、最初は百万ドルの内野陣と言われた守備陣と機動力のチームだった。個性豊かな選手が多くて、それを親分と言われた鶴岡一人さんが率い、作戦面は蔭山和夫さんがいた。尾張久次スコアラーが集めた情報の分析力も素晴らしかった。組織力のあるチームだったね。野村君も、ああいうチームにいたからこそ、観察力、洞察力が磨かれたんだろう。
三原脩さんは九州の田舎で、いかにこのチームに勝つかを考え、知恵と、あとは選手を一人ひとりつくっていくことで戦おうとした。私もそうだし、豊田泰光君、稲尾和久君、仰木彬君とね。それで31年から3連覇をし、選手権でも巨人を3年連続で破った。鶴岡さんも西鉄を見て思うところがあったんだろう。のちには南海も野村君や同じ高松出身の穴吹義雄らを中心に四百フィート打線で西鉄に対抗してきた。三原さんもそうだが・・・