プロ野球の歴史を彩り、その主役ともなった名選手の連続インタビュー第28回は大野豊氏の登場だ。テスト入団ながら黄金時代のカープで先発、中継ぎ、抑えと役割を変えながら奮闘した好左腕。勢いのある直球とキレ味鋭い変化球で5度のリーグ優勝に貢献した。148勝138セーブを達成した男が振り返る、自らの野球人生――。 取材・構成=大内隆雄、写真=BBM 王貞治から命運が開け、高橋由伸で命運が閉じた、と言ったら大野氏は苦笑するだろうか。これについては以下の大野氏自身の言葉が、よく説明してくれるだろう。
1977年から98年までの22年の間の長~いプロ野球人生は、大野氏の人生であると同時に、対戦した球団の歴史をも照らし出してくれる。巨人・王貞治一塁手の現役時代を77~80年の4シーズン知り、巨人・高橋由伸外野手がデビューした98年に、王より35年も年齢が下のその外野手と対戦、この年現役を終えたのが大野氏。この間、巨人の監督は、長嶋茂雄、藤田元司、王貞治、藤田元司、そして2度目の長嶋茂雄という顔ぶれだった。こういう時代の巨人を相手に投げまくったというのは、傍目にもゾクゾクするようなスリリングな22年ではなかったかと想像される。 王貞治の目に射すくめられプロを実感
高橋由伸に本塁打され引退決意
私は地理的には
広島に近いところで育ちましたが、出雲のような田舎の野球少年は巨人ファンなんですよ。ですから、カープに入っても、巨人戦には特別な思いがありましたねえ。後楽園で初めて王さんと対戦したとき、チームの先輩たちに「王さんの目を見るなよ」と言われた意味が分かりました。そりゃ、見るなと言われても投手は打者の目を見ますよね。王さんの目を見た瞬間、軸足が震え出したんです。こんな経験はもちろん初めてでした。ここから私のプロ野球人生が始まったと言えますね。
王さんには4シーズンで2ホーマーされています(78年5月9日、79年4月25日、いずれも広島市民球場)。1本目は流し打ちだったんですか? それは覚えていなかったなあ。でも、それを聞いて少し安心しました。多分、偶然左に飛んで、ギリギリで入ったのだとすると、私の方が少し勝ったのかな、と(笑)。いや実際、市民球場は狭かったですからね。でも、それは言い訳にはならないんで、われわれはその狭さにむしろ育てられたという面があるんです。打たれることによって、強いスイングをさせないためにはどうすればいいか、を必死で考えました。広島から好投手がたくさん生まれたのは、そういうことも関係しているんじゃないですか。いま思うと、せっかく王さんと対戦できたのだから、長嶋さんにも投げてみたかったですね。ONの巨人こそ、私のあこがれでしたから。
巨人には江川(卓投手)、西本(聖投手)、斎藤(雅樹投手)、槙原(寛己投手)、桑田(真澄投手)ら、いいピッチャーがいましたからねえ。彼らと投げ合うのは厳しかったけど、それは楽しみでもありました。特に槙原との対戦は記憶に残っています。本当にいい投手でしたから。いつだったか、彼と投げ合って9回まで0対0という緊迫した展開になりました。10回表、私の方が先に崩れてしまった。勝呂(博憲内野手、現壽統)にバックスクリーンに打ち込まれたのです。勝呂には申し訳ない言い方になりますが、どういう打者に対しても決して油断してはいけない、ということを身に染みて感じました。まあ、巨人戦とは、そういうものでしたね(大野氏の巨人戦通算成績は22勝33敗27セーブ。最後の33敗目が、大野氏に大きな決断を迫ることになる)。
98年は血栓症が再発して、もうさすがにやめる時期かな、と感じていました。そんなとき、巨人のルーキーの高橋由と対戦する試合がありました(8月4日、東京ドーム)。私は巨人の大物ルーキーには自信があったんです。原(辰徳内野手、現巨人監督)も松井(秀喜外野手)も初対戦の打席は三振させています。でも、由伸には、この自信が通用しませんでした。2球目のスライダーをものの見事に右翼席へたたき込まれてしまった。私は、「ああ、これでやめられる」と思いました。それまではボロボロになるまで、なんて考えていたのですが、このホームランで気持ちが吹っ切れた。のちに
オリックス時代の
イチロー(外野手、現ヤンキース)に会ったとき・・・
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