1990年、広島が選手育成のためにドミニカ共和国に開校したカープアカデミー。後にメジャーで活躍したソリアーノら多くの選手を輩出した。今年、育成から支配下に昇格したバティスタ、メヒアも同アカデミーの出身で、再び注目を集めている。連載「カープアカデミー物語」で、その歴史をたどる――。 最初の成功例で、最初の大きなつまずき

陽気な性格ではあったが、神経質なところもあったチェコ
1995年、近鉄の
野茂英雄のドジャース移籍、そして成功により、日本球界に新しい風が吹き始めた。
ドミニカ・カープアカデミー、
ロビンソン・チェコの反乱にも少なからず、その風の影響はあったのかもしれない。
一軍初昇格の95年、順調に勝ち星を挙げてきたチェコだが、8月になって突然「新たなボーナス契約を結ばなければ先発したくない」と先発を拒否する事件があった。そのときは球団側から「先発しないなら二軍」ときっぱり言われ、チェコ側から撤回したが、のち野茂の代理人としてメジャー移籍を手助けしたダン野村氏とチェコが代理人契約を結んだことが発覚した。
衝撃が走ったのは、11月7日だ。ダン野村氏は広島球団に対し、チェコの契約解除を一方的に通告し、メジャー球団との交渉を開始した。チェコ側の主張は、「チェコの契約書のサインが偽造されたもので、球団に支払い義務がある参加報酬の一部が支払われていない」など、つまり契約が不完全だから解除しても当然、というものだった。
広島はすぐ全面否定。12月6日には、雑誌に掲載されたダン野村氏の主張記事に対して、ダン野村氏を業務妨害および名誉棄損で告訴する泥沼となった。
その後、チェコの代理人がモーリン氏に代わり、1月には広島残留が発表されたが、広島でのプレーは今季限り、来年からレッドソックスでプレーするという裏約束があったという。
さらに翌96年2月22日、さらなる衝撃が走る。広島球団にファクスで、ダン野村氏が、ほかのドミニカの4選手と代理人契約を結んだという内容だった。こちらに関しては、翌日には球団が選手一人ひとりと契約を結び直し、一応の解決を見ている。
結局、チェコは同年、明らかに故障せぬようにとセーブした投球を繰り返し、4勝1敗で退団。予定どおりレッドソックスと契約したが、メジャーでは大成することなく、2000年限りで引退している。
当時からドミニカ共和国は多くのメジャー選手を輩出してきた。当然、彼らがつかんだビッグマネーをみんな知っている。対して、異邦の地・日本で過ごす自分たちは、本当に正当な報酬をもらっているのかという不信は当然あるだろう。広島にしても代理人はまだ日本球界に浸透した制度ではなく、いるだけで疑心暗鬼となる。起こるべくして起こった事件と言えるのかもしれない。
チェコの存在は広島にとってカープアカデミーの最初の成功例であり、最初の大きなつまずきでもあった。
<次回へ続く>
写真=BBM