引退のきっかけは肩の故障
引退会見での江川
プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は11月12日だ。
1987年、
王貞治監督となって初めてのリーグ優勝を果たした
巨人だが、日本シリーズでは宿敵
西武に敗れ、日本一には届かなかった。
その直後、11月8日が激震のスタートだった。一部のスポーツ紙で「巨人・
江川卓引退」が報じられると、スポーツだけでなく、一般紙や一般ニュース番組でも取り扱われる大騒ぎとなった。しかも、それは“ガセネタ”ではなかった。
江川本人は、すでに引退の意思を固め、球団に伝えており、11日には王監督が直接の引き留め。その後の会見では「今晩、家でもう一度考えてみたい」と語った江川だが、翌12日、正力亨オーナーを交えての再度の会談でも気持ちは変わらず、同日引退会見を行うことになった。
ホテル・ニューオータニの会見はかなり長いものとなった。
江川によれば、引退のきっかけとなったのは、入団4年目(82年)途中に悪化させた肩の故障だ。以後ごまかし、ごまかしやっていたが、7年目の85年、11勝7敗に終わった年の夏に引退を覚悟。ただ、夫人から「もうひと花咲かせてからでも」と言われ、肩の治療をあちこちで受けてみることにした。
結果的には中国針の治療である程度、回復し、翌86年は16勝を挙げている。しかし、この87年になって徐々に悪化。優勝争いもあって休むことができず、針の頻度をあげざるを得なくなり、最後は「ここに打てば投げられるが、今年で(選手生命が)終わってしまうかも」と言われた禁断の場所にも打って投げていたという。
引退を決めたのは、9月20日の
広島戦(広島市民)だ。
小早川毅彦に自信を持って投げ込んだ高めのストレートを打ち返され、サヨナラホームラン。試合後、号泣した。当時は涙の理由を明かさなかったが、会見では、「あのとき、自分の野球人生が終わったなあと感じた」という。
さらに「100球肩」の解説、入団時に自身とのトレードで
阪神に移籍した
小林繁、特に確執のあったマスコミへの謝罪など、時に涙を流しながら熱く語った江川。のち「そのような危険なツボはない」と鍼灸医団体に抗議を受け、謝罪しているが、テレビやカメラマンを含め、
大勢の前で話しているうちに気持ちが高まったのだろう。大舞台や強敵と対峙したときほど、力を発揮した江川らしいといえなくもない。
江川の生涯通算成績135勝72敗3セーブ。ラストイヤーは13勝5敗。まだ、32歳だった。
写真=BBM