歩けない動けない男
43歳・
落合博満vs.17歳・広末涼子。
1997年のオールスター第2戦でそんな夢の対決が実現した。全パ一番打者として神宮球場の打席に入るのは自身最後のオールスター戦に臨む
日本ハムの落合博満。そして、始球式を務めたのは宮沢りえ以来の平成スーパーアイドルと称された広末涼子である。NTTドコモのポケベルCMで話題となり、この年には『MajiでKoiする5秒前』や『大スキ!』といったシングルCDも立て続けにヒットさせた全盛期の広末の球を受けるキャッチャーは
古田敦也(
ヤクルト)だ。ちなみに全パ四番は最多得票の
イチロー(
オリックス)、MVPは2本の2ランアーチをかっ飛ばした
清原和博(
巨人)である。
その清原が前年オフに巨人へFA移籍したあと、後釜で西武ライオンズの代役一塁手を務めたのが新外国人選手の
ドミンゴ・マルティネスだった。今でこそ、“マルちゃん”の愛称で知られる90年代人気助っ人のイメージが強いが、来日1年目の開幕前に現場とフロントで真剣に解雇が検討されたことはあまり知られていない。
週刊ベースボール97年6月16日号掲載『打って楽しやニッポンライフ 西武・マルティネス』でその詳細が書かれているが、2月初旬にマルちゃんがキャンプ合流数日後に普通に歩いただけでアキレス腱を痛めた姿に
東尾修監督もあきれ顔。さらにリハビリをしようにも、宮本英治トレーニングコーチは「運動をする以前の問題でした。腹筋すらまともにできなかったんですから」とどうしたらいいのか困り果てたという。
走れない守れない以前に、歩けない動けない男。身長185センチ、体重102キロ。当時31歳にして大ベテランのような肉体と大きなお腹(しかも65年生まれながら西武時代は生年月日を67年8月4日と2歳サバを読んでいた。野球界も大らかな時代である)。そんな逆風の中、マルティネスは、助っ人にありがちなプライドをひけらすかようなことはせず、周囲が言うことにも素直に従い減量しながらケガ防止のメニューに取り組む。
ドミニカ共和国に生まれ、アメリカでの成功を夢見て、93年にはトロント・ブルージェイズの一員としてワールド・シリーズで世界一に輝いたが、MLB通算はわずか2本塁打のみ。出口の見えないマイナー生活とメキシカン・リーグでのプレーに行き詰まりを感じ、来日を決意する。しかし、キャンプでの故障を引きずり、オープン戦は24打数4安打、本塁打と打点はゼロという散々な成績に東尾監督は堤義明オーナーに新外国人の獲得を直訴するほどだった。
打撃で連覇に貢献も解雇
当時の西武は黄金期を支えたメンバーが続々と移籍し、世代交代の真っ只中。前年の96年シーズンは111試合目まで最下位に沈み、最終的に意地を見せて3位に滑り込んだものの最強神話は終わりを告げた。いわば97年は東尾監督も自身のクビがかかった崖っぷちのシーズンである。その逆襲のキーマンに考えていたスラッガー候補の不振。大の甘えん坊で家事は一切やらず、スペイン語以外、日本語もまったくできず、英語も片言。西武球場への行き帰りの電車の乗り換えにも四苦八苦。だが、まずDH起用で守備の負担から解放され、4月初旬に奥さんと長男が来日すると、マルちゃんの打棒がついに爆発する。5月5日の
ロッテ戦で来日初の1試合2発をマーク、5月月間MVPに選出され、本塁打と打点のタイトル争いにも顔を出す。
チームも“一番・
松井稼頭央、二番・
大友進、三番・
高木大成”の若さあふれるスタメンで、松井62盗塁、大友31盗塁、高木24盗塁と走りまくり、クリーンアップの
鈴木健やマルティネスがそれをかえす新オーダーが機能。背番号60が打ったら負けない“マルちゃん神話”が誕生し、それに目をつけた大手食品メーカーが「マルちゃん賞」を新設。本塁打を1本打つたびに主力商品10ケース(240個)が本人に送られる大盤振る舞い。いや、それさらに太るんじゃ……なんて心配もどこ吹く風、さらにタイトル獲得なら100万円、三冠王なら500万円のボーナスまで付くマルちゃんバブルの到来である。営業面でもマルティネスはスター選手の清原が抜けた穴を見事に埋めてみせたのである。
試合前ミーティングではナインより20分前に現れ、担当スコアラーから相手投手のクセや特徴を聞き出す姿。
土井正博打撃コーチも「あんなに研究熱心な助っ人は見たことがない」と絶賛するドミニカンは、1年目から打率.305、31本塁打、108打点、OPS.933の好成績でベストナインにも輝き、3年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献してみせた。翌98年も2年連続で30発、90打点をクリアと存在感を見せたが、肝心の日本シリーズで守備と脚力の不安から、DH制度がないセ・リーグ本拠地では出場できないマイナス面もクローズアップされ、この年限りで解雇されてしまう。
周囲から煽られた清原との一塁争い
巨人・マルティネス
だが、その優良助っ人に目をつけたのは長嶋巨人だった。パイレーツのキャンプに参加するも、メジャーからは声が掛からなかったマルティネスを開幕後の99年6月に獲得。清原に代わり、四番を任せられると83試合で打率.324、16本塁打、56点、OPS.946の好成績。中堅・
松井秀喜、右翼・
高橋由伸、左翼・マルティネスの超重量外野トリオは、野球ゲームの『パワプロ』で子どもたちの一番人気となり、あの
山田哲人も幼少時は巨人のマルちゃんにあこがれたほどだ。
しかし、どうしても周囲は清原との一塁争いを煽った。2000年7月24日号の清原和博が表紙を飾る週刊ベースボールでは、“清原には負けない!! マルティネス(巨人)インタビュー”の見出しも確認できる。だが、そのインタビュー内容を確認してみると、「私は代打でもいいし、清原選手が代打で、自分がスタメンでもいい。それは監督が考えて使うこと」とあっさりかわし、「個人の記録は関係ない。優勝のために全力を尽くすだけ」なんて語る大人のマルちゃん。だが、同時期の週刊宝石では「清原vs.マルティネス“1塁戦争”の時限爆弾」の見出しが踊る。
当時の長嶋巨人と言えばスター選手ぞろいで、多くの報道陣が追いかけ、週刊誌の格好のネタだった。遠征先での“巨人マルティネスがナニワの豊満美女にホームラン!”という西武時代には見逃されていたであろう女性スキャンダルもしっかり撮られ、ダメ押しのように2000年夏には同じドミニカンで兄のように慕っていた
バルビーノ・ガルベスが一時帰国してしまう。真夜中に母国料理を作ってくれたガルベスが去り、奥さんも帰国し、インスタント食品と酒の不健康な食生活で再び体重が増加。マルちゃんは単身赴任のサラリーマンのような日常に身体のキレも失われ、2001年には清原の完全復活で出番が激減し、この年限りで退団した。
西武と巨人の両チームで清原和博との不思議な因縁に翻弄された5年間の日本生活。2018年、38歳の広末涼子はマジで3児のママとなり、53歳のマルティネスはドミニカ共和国で
中日ドラゴンズの外国人スカウトとして、優良助っ人を続々と日本へ送り込んでいる。
文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM