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プロ野球1980年代の名選手

松岡弘 通算191勝190敗――ヤクルト初代エース/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

不本意な最優秀防御率



「首脳陣から制球力重視と言われてやったが、それは三振を捨てるピッチング。それに終盤はタイトルを競っていた江川(卓。巨人)の様子を見ながらの登板。もうタイトルなんていいから投げさせてくれと思ったことが何度もある」

 1980年に防御率2.35で初タイトルとなる最優秀防御率を獲得したが、満足感は少なかったという。愚直なまでに速球勝負にこだわったヤクルトの松岡弘だ。

 三菱重工水島でプレーしていた67年、秋のドラフト5位で当時のサンケイから指名されるも、契約見送りの手紙が届く。

「当時はそんなこともよくあった。ショックじゃなかった。よおし見とれ、と。都市対抗に出れば絶対、土下座してくると思った。その一心で都市対抗に出たら、すぐ入ってくれとスカウトが来た」

 翌68年8月に入団。とにかく球は速かったが、突如として四球で崩れることも少なくなかった。70年まで2年連続2ケタ敗戦、71年からは2年連続リーグ最多敗戦。だが、73年には3年連続2ケタ勝利となる21勝を挙げて、球界を代表する投手に成長した。

 74年からも2ケタ勝利を続けたが、77年は9勝に終わる。迎えた78年も調子が上がらず、6月に廣岡達朗監督からミニキャンプ指令が出た。しかも、登録は抹消せず、一軍に帯同しながら鍛えろ、というものだ。宿舎のホテルでも、深夜まで練習を続け、フォームを修正していった。

 8月26日の巨人戦(神宮)で完封勝利を挙げて完全復活。9月は負けなし、3完投を含む6連勝で、ヤクルト初優勝に向けたラストスパートを加速させた。10月4日の中日戦(神宮)でも完封勝利。初優勝の胴上げ投手となった。最終的には16勝で沢村賞に選ばれている。

 阪急との日本シリーズでも第7戦に先発、大杉勝男が放った左翼ポール際への本塁打を巡って阪急の上田利治監督が猛抗議して1時間19分の中断があったゲームだが、阪急の先発だった足立光宏が肩の面でも気持ちの面でも続投できなかったのとは対照的に、「いい休憩になった」と、またも完封で胴上げ投手となっている。

 翌79年はリリーフにも回って9勝13セーブ、迎えた80年は13勝6敗と勝ち越して最優秀防御率に。プロ13年目。このタイトル獲得がターニングポイントとなる。同期入団の左腕エースで、スローボールの“本格派”安田猛は対照的な存在で、日本一イヤーの78年には15勝を挙げたが、その後は左ヒザ痛もあって勝ち星が伸びず、不本意な結果が続いていた。翌81年に現役を引退するが、そんな安田の分まで投げるかのように、ふたたび速球勝負にこだわっていく。衰えてもなお、技巧派への転向を潔しとしなかった。

通算200勝まで残り9勝で


 81年は12勝を挙げたが、被本塁打はリーグ最多の29。真っ向勝負が分かる数字だ。チームも徐々に勢いを失っていく中で、本格派のピッチングを続けていく。

 82年は9勝にとどまったものの、83年には11勝。だが、13敗、14敗と2年連続で負け越し、83年の14敗はリーグ最多となる。続く84年は、69年から続いていた規定投球回到達も途切れ、わずか1勝。これが最後の勝ち星となった。

 巻き返しを期した85年だったが、首の激痛もあり、4カ月にも及ぶ長い二軍暮らし。復帰後もKOが続き、ゼロ勝に終わった。

「4月に相性が良かった原(辰徳。巨人)にホームランを打たれ、もうダメかなと思っていた」

 通算191勝190敗。目標の200勝に残り9勝と迫っていたが、キッパリと現役を引退した。だが、

「勝利だけじゃない。190敗という数字も、負けても負けても起用され続けたエースの証」と胸を張る。しかも、とにかく低迷が長かったヤクルトにあって、最後はわずかにはなってしまったが、しっかり勝ち越している。間違いなくヤクルトの初代エースだ。

写真=BBM
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