1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 負けても投げ続けたラストイヤー
とにかく弱く、弱いからこそファンに愛された。どんなに弱くてもファンは声援を送り、敗れればファンに励まされる。特に横浜へ移転してからは、そんな独特の雰囲気すら漂っていた大洋にあって、エースとして長くチームを支え続けた平松政次は、37歳、プロ18年目となった1984年にラストイヤーを迎える。
全盛期から故障などで登板を回避することが少なくなく“ガラスのエース”と呼ばれたが、その“ガラス”は歴戦の酷使で傷つき、傷は確実に広がって、今にも粉々に砕けそうになっていた。それでも、投手陣は
遠藤一彦が孤軍奮闘、クローザーの
斉藤明夫も終盤には先発に回り、4月後半にはBクラスが定位置となったチームも8月下旬には最下位にどっぷりと沈む中で、開幕から先発のマウンドに立ち続け、敗れ続ける。そのキャリアでは例を見ないほど黒星が先行した。
立ち上がりから打ち込まれるケースもないわけではなかったが、打線の援護がないまま試合の終盤に力尽きたパターンも多い。その姿は、母性を発揮するかのように負けても声援を送り続ける暖かい(あるいは、ぬるい)大洋ファンの心を、違った意味で震わせた。
12年も続いた2ケタ勝利も80年でストップ。82年には引退を決意していた。
「あまりにも肩が悪くて、やめようと思った。5月くらいに『引退します』と関根(潤三)監督に挨拶したんです。そうしたら、『じゃあ5月5日の
中日戦(ナゴヤ)を最後の登板にしよう。俺が見届け人だから思い切って投げろ』って。それが5回まで1失点に抑えて勝利投手になったんです。(通算)185勝目ですね。球速は100キロくらいしか出なかった。お恥ずかしい話ですよね。よくプロのマウンドに上がって投げたもんですよ。
でも、これが全部チェンジアップになって、谷沢(
谷沢健一)、宇野(
宇野勝)、田尾(
田尾安志)らが泳ぎまくった。相手は肩が痛いなんて知りませんからね。それからトレーナーと話をしたら『まだ肩の筋肉が生きている。200勝を目指せ』と。名球会がなかったら、やめていたと思います。あんな苦しみには耐えられなかった。肩の痛みが神経にきて、頭も痛かったですから」
確かに、名球会を目標に掲げたことで、翌83年には通算200勝に到達した。だが、それだけに、名球会という動機だけでは、ラストイヤーの粘投は説明できないのだ。
V9巨人に牙をむき
名球会の投手で、プロ野球のみで通算200勝を達成しながら優勝を経験していないのは唯一。ほかの投手に比べて、はるかに達成感が希薄だったことは想像に難くない。“ガラス”と揶揄されたエースだったが、その魂は誰よりもタフだったのかもしれない。“巨人キラー”とも呼ばれたが、その全盛期、巨人はV9の絶頂期だ。にもかかわらず、通算51勝47敗と、白星が上回っている。
少年期は巨人、特に
長嶋茂雄のファンだった。ちなみに名球会の投手で、甲子園の優勝投手でもあるのも唯一。岡山東商高のエースとして65年にセンバツ出場、39イニング連続無失点の快投を演じて優勝の立役者となると、第1回ドラフトで中日から4位で指名されるも、あこがれの巨人へ入団すべく拒否して日本石油へ。だが、続く第2回、翌66年秋の第二次ドラフトで、2位で指名したのは大洋だった。
その翌67年、日本石油を都市対抗優勝に導き、橋戸賞を手土産に、シーズン途中に大洋へ。次のドラフトで巨人から指名されるのを待つという噂もあったが、きっぱりと巨人への思いを断ち切っての入団。むしろ、指名を回避した巨人への対決姿勢を示す。すでに大洋は暗黒期へと沈みつつあったが、のちに「巨人で投げてみたいと思わなかったか」という問いには、こう言い切った。
「それはない。(大洋へ)入る前はファンでしたけど、入った時点で、もう敵ですから。この強いチームを、どうやって倒してやろうかって、ずっと思ってました。(
王貞治と長嶋の)ONと戦えたことは、すごく幸せだったし、戦うことで自分を磨けました」
写真=BBM