1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 「練習こそ前進の糧」
身長167センチと小柄ながら、“世界の盗塁王”にまで駆け上がったのが阪急の
福本豊。パ・リーグの連続盗塁王は13年も続いたが、1983年、その牙城を崩したのは、さらなる小兵の韋駄天だった。名は体を表す、と言われるが、名前には“大”の字が2つも入る。身長166センチ。近鉄の大石大二郎だ。
静岡県静岡市、海沿いの町で商店を営む家に生まれた。2つ上の兄と近くの松林を駆け回り、自然と脚力が磨かれていく。野球を始めたのは中学1年の途中から。背は高いほうだったが、3年でピタリと止まってしまった。静岡商高では75年センバツに一番打者として出場してベスト8進出に貢献。同級生には
久保寺雄二(のち南海)がいた。亜大では3年春のリーグ戦で当時の1シーズン最多記録となる17盗塁。父に「お前の武器は足じゃないか。どんどんやってみろ」と言われて、いっそう足を武器としていく。
ドラフト2位で81年に近鉄へ入団。1年目から77試合に出場したが、ほとんどが代走か守備固めで、11盗塁をマークしながらも、わずか20打席に終わった。
「僕みたいに小さな人間は、練習を真面目にやっていないと、すぐ置いてきぼりを食ってしまう」
亜大で“サボりの大二郎”と呼ばれた男は、練習の虫へと変貌を遂げる。
「練習こそ前身の糧。これが僕のモットー」
野球に取り組む真摯な姿勢や礼儀正しい態度は他チームの選手にも好印象を与えた。翌82年には開幕スタメンの座をつかみ、主に「二番・二塁」で129試合に出場して新人王に。リーグ最多の23犠打に加え、47盗塁。目標にしていた福本と盗塁王を争ったが、
「目の前にニンジンがぶら下がって、マイペースを忘れた」
と、歴戦の“怪盗”にタイトルをさらわれる。
迎えた83年、パ・リーグではハイレベルな盗塁王争いが繰り広げられた。近年のものから比べれば別次元の世界といえる。
「勝利に貢献する盗塁を決めたい」
と、盗塁成功率も意識しながら、果敢に三盗も企図した。終盤に失速した前年の反省を踏まえて、10月11日の西武戦(西武)で怒涛のラストスパート。ゲーム4盗塁を決めて、最終的には福本に5盗塁の差をつける自己最多の60盗塁で初の盗塁王に輝いた。
「走れなくなったら終わり」
166センチの韋駄天が相棒としたバットは、最終的には1160グラムまで重くなったという、いわゆる“すりこぎバット”だ。82年の自主トレで、たまたま先輩の
吹石徳一に勧められて手にしたもので、バランスを整えようとしていくうちに、だんだんとヘッドが重くなっていった。これが全身を存分に使ったフルスイングにつながる。
一方、持ち前の俊足は二塁守備でも発揮された。広い守備範囲を誇り、派手さはないが、堅実。翌84年には46盗塁で2年連続の盗塁王に加え、自己最多の29本塁打を放ち、3年連続となるダイヤモンド・グラブに選ばれている。また、3年連続の出場となった球宴の第3戦(ナゴヤ)では、9連続奪三振の球宴記録に迫っていた巨人の
江川卓と対峙、たちまち2ストライクと追い込まれたが、「あと1球」
コールが飛び交う異様な雰囲気の中、ボール球と思えるカーブに対して投げ出すようにバットを当てる。二ゴロに倒れたものの、記録は阻止。しぶとい打撃も一級品だった。
87年に41盗塁で3度目の盗塁王。その後はタイトルから遠ざかっていったが、
「走れなくなったら終わり」
と背水の陣で挑んだプロ13年目の93年には通算350盗塁にも到達して、31盗塁で4度目の盗塁王に。35歳での盗塁王は、福本と並ぶ最年長の盗塁王だった。
「40歳までの現役続行と通算2000安打」
と目標に掲げた97年、球団から引退を勧められる雰囲気になると、あっさりと現役引退。このラストイヤーが初の“1ケタ盗塁”で、2ケタ盗塁は前年まで16年連続だった。
写真=BBM