背番号は、ある選手が引退しても、またある選手に受け継がれていく。2019年も新たな後継者が誕生した。その歴史を週刊ベースボールONLINEで振り返っていく。 もうひとつの“欠番”も
2016年に広島を25年ぶりの優勝に導いて現役を引退した黒田博樹が永久欠番となった「15」。最初の永久欠番は“初代ミスター・ドラゴンズ”
西沢道夫だ。若手時代は投手で、たびたび背番号も変えていたが、金星時代の1948年から
中日で引退する58年まで背負い続けた、西沢にとって最長の背番号だ。西沢は63年に指導者として復帰、監督にもなって、66年まで「15」を復活させている。
正式な永久欠番ではないが、もう1チーム、長く欠番なのが
ソフトバンクだ。日本人で初めてメジャー・リーガーとなった“マッシー”
村上雅則など個性派の系譜だが、この「15」を最後に着けたのが
藤井将雄。強気のピッチングで“炎の中継ぎ投手”と呼ばれたセットアッパーだ。低迷していたダイエーに入団した95年から「15」を背負い、99年には59試合に投げまくって、チームが九州へ移転して初のリーグ優勝、日本一に貢献。ブルペンの兄貴分として後輩からも慕われた。
だが、優勝パレードの翌日に肺の異常が見つかり、肺ガンと診断される。翌00年、一時はファームで6試合に登板するほどの回復を見せたが、リーグ連覇を見届けるように、10月13日に死去した。チームは黄金時代を迎え、ダイエーからソフトバンクになるなどの激動もあった。21世紀に入って19年目となるが、誰ひとりとして「15」を着けた選手はいない。
【12球団・主な歴代「15」】
巨人 平山菊二、
城之内邦雄、
山倉和博、
河原純一、
澤村拓一☆
阪神 御園生崇男、
権藤正利、
湯舟敏郎、
藤田太陽(太陽)、
横山雄哉 中日
中根之、
伊藤国雄、
吉田猪佐喜、西沢道夫★
オリックス 北井正雄、
関口朋幸、
加藤大輔、
佐藤達也、
荒西祐大☆(2019年~)
ソフトバンク
栗生信夫、
富永嘉郎、
大沢昌芳(啓二)、村上雅則、藤井将雄
日本ハム 宮沢澄也、
工藤幹夫、
武田一浩、ウィルソン、
上沢直之☆
ロッテ 祖父江東一郎、
岩崎忠義、
荘勝雄、
上野大樹、
関谷亮太☆
DeNA 稲川誠、
門田富昭、
盛田幸妃、
河原隆一、
井納翔一☆
西武 河村久文、
田中章、
松沼博久、
大沼幸二、
大石達也☆
広島
小鶴誠、
安仁屋宗八、
津田恒美、
片瀬清利(聖敏)、黒田博樹★
ヤクルト 箱田弘志、
石岡康三、
岡林洋一、
村中恭兵、
大下佑馬☆
楽天 福盛和男、
藤原紘通、ブラックリー、
小野郁、
美馬学☆
(☆は2019年、★は永久欠番)
1リーグ時代には守備の名手も
現在は投手ナンバーとなっている「15」だが、プロ野球の創設期には錚々たる打者もいた。阪神の初代は長きにわたって着け続けた投手の御園生崇男だが、巨人の2代目は“塀際の魔術師”と呼ばれた名外野手の平山菊二。東京セネタースには二塁守備の天才で「苅田の前に苅田なく、苅田の後に苅田なし」と言われた苅田久徳がいた。
2リーグ制となってからも、広島で和製大砲の小鶴誠が「15」となる。南海では大沢昌芳(大沢啓二)。監督として“親分”の愛称で親しまれた印象が強いが、現役時代は頭脳派の外野手で、現在では当たり前のプレーだが、打者の打球傾向によって守備位置を変えた先駆者とも言われる。
広島では選手が定着しないナンバーで、小鶴は引退までの6年間、阪神から復帰した安仁屋宗八が引退までの2年間、若手時代の津田恒美が3年間と、顔ぶれは豪華だが、いずれも着けた期間が短く、黒田の足かけ13年が最長となっている。
写真=BBM