1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 ドラフトの涙、日本シリーズの涙
他人の評価と本人の認識は必ずしも一致しない。ほかからは誰よりも輝いているように見えても、本人にとっては、わずかな歯車の狂いから生じた小さな違和感に納得できないことで、不本意とまではいわないまでも、こんなはずではなかった、もっと本当は輝いていたはずだ、というような、本人にしか分かりえない、わだかまりのようなものを抱えていることもあるだろう。もしかすると、1980年代の後半、大活躍しているようにしか見えなかった西武の清原和博も、そんな思いだったのかもしれない。もちろん、平成も終わろうとする今になってから、昭和の昔を振り返っての話だ。
PL学園高3年生の85年、夏の甲子園では決勝戦で本塁打を放ったときの「甲子園は清原のためにあるのか!」という実況は、今も多くの人の記憶に残っているだろう。甲子園では新記録となる通算13本塁打。少年時代から
王貞治(巨人)にあこがれ、その王が監督を務める巨人からドラフト1位での指名が確約されているともいわれていた。だが、巨人が指名したのはPL学園高のチームメートで“KKコンビ”として並び称された
桑田真澄。記者会見では大粒の涙を流した。ボタンの掛け違えがあったとしたら、ここだろう。それでも、「あんたが勝手に片思いしてフラれただけやない。男なら見返しなさい」という母親の言葉で前を向き、ドラフト1位で86年に西武へ入団した。
黄金時代にあった西武で、高卒ルーキーながら開幕第2戦、4月5日の南海戦(西武)で一軍初出場を果たすと、9回裏二死の場面で迎えた第2打席で初安打を初本塁打で飾り、喜びを爆発させる。
「今日の(本塁打)は出合い頭かもしれんし、先は長いでしょ。徐々に慣れていきたいです」
このプロ第1号の時点で、早くも「王の通算本塁打の世界記録を抜くのでは」という声も出始め、それを本人も目標にしていた。いや、王の記録を抜くのは自分しかいないと信じていた。5月22日の阪急戦(西武)では大エースの
山田久志からバックスクリーン直撃の特大本塁打。球宴にも出場して、第2戦(大阪)で高卒ルーキーとして初の球宴本塁打も放った。9月27日の近鉄戦(西武)では28号に到達して高卒ルーキーのプロ野球記録を更新。10月7日の
ロッテ戦(川崎)で初めて四番打者としてスタメン出場すると、新人のプロ野球記録に並ぶ31号本塁打を放った。
新人王に選ばれ、オフには「新人類」という流行語を定着させた1人として、チームメートの
工藤公康、
渡辺久信らと流行語大賞の表彰式にも参加。2年目には桑田との“直接対決”が球宴の第3戦、それも高校時代に頂点を極めた甲子園球場で実現、桑田の初球を左翼席へ運ぶ特大本塁打に。日本シリーズでは巨人と激突。王手をかけた第6戦(西武)、9回表二死、あと1人で巨人を倒して日本一という場面で、一塁を守りながら涙。
「体がガタガタ震え、自然に込み上げてきた」
その姿に多くの野球ファンも涙を流したが、それは同時に、この男の巨人に対する思いの強さを理解していたからでもあっただろう。
89年に史上最年少で通算100本塁打
3年目の88年は再び30本塁打の大台をクリア。翌89年シーズン途中には
デストラーデも加入して、
秋山幸二と3人で“AKD砲”を形成、通算100本塁打にも到達する。21歳9カ月は最年少記録だ。92年に24歳10カ月で到達した200号も最年少記録。それまでは王の本塁打ペースを上回っていたが、徐々にペースが下がり、そして離された。
96年オフにFA宣言。選んだのはあこがれの巨人だったが、故障とバッシングに苦しむ姿も記憶に残る。それでも肉体改造に取り組むなど、2001年には自己最多の121打点。だが、05年オフに自由契約となり、
オリックスで3年間プレーして、通算1955三振、196死球、サヨナラ本塁打12本のプロ野球記録を残して現役引退。打撃タイトルには最後まで縁がなかった。
ここで再び、時計の針を80年代に戻す。あのときの輝きが強すぎたゆえに、その後の影が濃くなったのかもしれない。だが、その輝きは、誰もがうらやむほどにまばゆかったことは、あの時代を共有した誰もが確かに知っている。
写真=BBM