昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 中日の背番号シャフル
今回は『1967年2月20日号』。定価は60円だ。
2月1日、多摩川から
巨人のトレーニングが始動。一番乗りは愛車サンダー
バードに乗った
長嶋茂雄だった。
今回のキャンプは多摩川と宮崎に分かれてスタート。多摩川は長嶋、
王貞治、
金田正一ら主力組、宮崎は
堀内恒夫ら若手組だった。
ここから選手選考をし、2月中旬から一部がベロビーチキャンプのため渡米することになっている。
若手選手たちは、いわば一軍主力の“手形”となるベロビーチ組に入ろうと必死でアピールしていたが、宮崎にいた
川上哲治監督は、
「あんなのくじ引きで決めたらいいじゃないですか」
とそっけない。
宮崎で話題になっているのは、2年目の堀内と新人・
槌田誠。
槌田は立大で三冠王にもなった強打の捕手。ただ、キャンプ序盤の打撃練習では外野にもほとんど飛ばない。
「練習不足か」と尋ねられると、
「僕は実戦タイプやから練習ではよう打たんのですよ。だいたい試合前にポカポカ打つもんほど、試合では打てんですよ」
となかなかの放言。
若手ナインの中では、「ほら吹きクレイ」というニックネームもついたようだ。
ボクシングのヘビー級世界チャンピオン、カシアス・クレイ(モハメッド・アリ)からつけたものである。
中日の背番号がまた変わった。
西沢道夫監督が15から63にすると、15の裏返し51をつけていた
坪内道則コーチが「また逆の36をつけたい」と言って変更。36だった
千原陽三郎は、南海を自由契約になって41で復帰した
井上登から41をもらい、井上はもともとつけていて愛着もあった51に戻った。
心臓の疾患もあった西沢監督は、2位にはなるも采配への疑問が多く、特に何かと言えば、坪内コーチと話し合いをし、即断できなかったことが選手からの批判にもなっていた。
そのためもあってか、坪内コーチは67年から二軍監督となった。球団としては、坪内の代わりに元巨人の
広岡達朗を招くつもりだったが、それは実現していない。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM