日本のプロ野球に外国人登録枠が採用されたのは1952年から。だが、それ以前の黎明期から日系二世などの外国人はプレーしていた。時代とともに外国人枠、外国人選手の出身国、日本球界を取り巻く環境も変わってきた。それぞれの時代の中で外国人選手はどのような役割を果たしてきたのか。助っ人のトレンドを年代別に考察してみよう。 破壊的な長打力
「舶来の指名打者」の時代がパ・リーグにおいて花開いたのがこの1990年代ではないだろうか。東京ドーム、グリーンスタジアム神戸、千葉マリンスタジアム、福岡ドームなど(球場の呼称はいずれも当時)大きめの球場が使われるようになり、長距離砲は外国産に任せようというチーム編成が主流となった。
特に89年の近鉄優勝の立役者であるブライアント、
西武黄金時代の五番打者・
デストラーデはその破壊的な長打力によって90年代前半のパ・リーグを大いに盛り上げた。
日本ハムにはウィンタース、
ロッテにはディアズ、ダイエーにはバナザードと90年代序盤は各チームに役者がそろっていた。舶来DHの系譜は、その後、
ニール(
オリックス)、
マルティネス(西武ほか)、ウィルソン(日本ハム)へと受け継がれていく。
選手ではないが、95年にはロッテ監督にバレンタインが就任。当時「万年Bクラス」とも呼ばれていたチームを2位に躍進させた手腕は高く評価されたが、一方で当時のGMとの対立によって1年限りで退団した。また、このときのバレンタインは自らのコネクションによって
フリオ・フランコ、インカビリア、
ヒルマンと3人の外国人選手を連れてきた。インカビリアは日本で結果を残すことができなかったが、
フランコは残した数字以上に、プロとしての姿勢などが周囲の選手たちに好影響を与え、尊敬を集めた。
フランコやインカビリアのような「大物」が95年に来日したのは、94年にMLBで長期ストライキが起こった影響もあった。ほかにもマック(
巨人)、デービス(
阪神)なども来日したが、良くも悪くもインパクトを残したのは同年ダイエーに入団したミッチェルだろう。89年に本塁打と打点の2冠でMVPを獲得した超大物で、前年レッズで95試合ながら30本塁打していた大砲。この年、開幕戦で初打席満塁ホームランと衝撃的なデビューを飾るが、ほどなく故障を訴えて帰国。8月に再来日したがすぐにまた帰国し、「問題児」と報道された。97年には阪神で
グリーンウェルが「神のお告げがあった」という理由で突然引退した。
外国人枠の拡大で“助っ投”躍動
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来日1年目には16勝を挙げてタイトルに輝いたが、トラブルメーカーでもあったガルベス
セ・リーグは90年代の首位打者のうち、7回が外国人。94年から3年連続のパウエル(
中日)のほか、
パチョレック(大洋)、ハウエル(
ヤクルト)、
オマリー(阪神)、ローズ(横浜)と巧打者が競い合った。野村ヤクルト黄金時代でもあったが、92年はハウエル、95年はオマリー(阪神からこの年移籍)がMVPに選出。ローズは99年に37本塁打、153打点(史上2位)と猛打を発揮した。
94年に外国人選手枠が拡大し、投手を含めて3人の一軍登録が可能になった。96年には支配下登録可能な人数が無制限に(それまでは3人まで)。これによって各チームが外国人投手をより多く起用するようになり、ブロス(ヤクルト)、ガルベス(巨人)、
グロス(日本ハム)などが躍動した。
98年に一軍登録枠が投手2人、野手2人に拡大されると、リリーフを外国人に任せるチームが増加。99年にリーグ優勝した中日は
サムソン・リーから
宣銅烈へのリレーを必勝パターンとし、同年から2連覇したダイエーの守護神をペドラザが務めるなど、外国人投手はますます欠かせない存在になった。
写真=BBM