1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 「若いからこそ」来日
1980年代は海の底に沈みっぱなしだった大洋だったが、港町で国際都市でもある横浜を拠点としていることも好条件になったのか、助っ人の補強に関しては相当の確率で成功を収めている。80年まではメジャーの名二塁手で、バットを極端に短く持って寝かせ、小首をかしげるような独特な打撃フォームで安打を量産した
フェリックス・ミヤーンがいた。3年の在籍で通算52三振と安定感も抜群で、79年には球団史上初の首位打者に輝いた巧打者だ。
その後も
ロッテから加入した
レオン・リー、スクーターのCMにも出演していた
ジム・トレーシー、西武から加入したスイッチヒッターの
ジェリー・ホワイト、敬虔なクリスチャンでもあった
ダグ・ローマン、そして本塁打王1度、打点王2度の
カルロス・ポンセ。成績だけでなく、好漢としても印象に残る助っ人たちが並ぶが、そんな80年代の大洋で最後に加入した助っ人がジム・パチョレック。やはり好成績を残した好人物で、そんな大洋の助っ人らしさを両立させた右の“舶来ヒットメーカー”だった。
82年のドラフト8巡目でブリュワーズに指名されたが、メジャーデビューは87年。48試合に出場したが、オフに大洋から声をかけられる。まだ28歳の若さだった。
「若いのに、と言うかもしれないが、若いからこそ、いろいろなことを経験してみたくて」という理由で来日。日本に対する知識はまったくなかったものの、すぐに順応、すぐに寿司も食べられたという。大洋とは1年契約だったが、
「翌年も契約してもらうためには、結果を残すしかない」
というハングリー精神も原動力に。ブリュワーズでも変化球を打つのが得意で、器用な打撃には定評があったが、87年にリーグ最多安打を放ち、打点王に輝いた
ポンセの親切なアドバイスもあり、日本の野球に適応するのに時間はかからなかった。
守っても一塁と左翼を兼務。全試合に出場してリーグ最多の165安打、リーグ2位の打率.332をマークした。一方のポンセも右翼を中心に一塁へも回り、本塁打王、打点王の打撃2冠。大洋からは
屋鋪要も3年連続で盗塁王となっていて、
遠藤一彦、
斉藤明夫ら投手陣の二枚看板が故障に苦しんだシーズンながらチーム打率はトップで、順位も前年の5位から4位へと浮上している。
勝負強さも光った打撃
2年目の89年も一塁と左翼を兼ね、打撃も好調を維持。ポンセは不振に苦しんだが、自己最高の打率.333をマークする。ただ、首位打者は初の打率4割をうかがった巨人の
クロマティの打率.378で、遠く離されたリーグ2位。本塁打も17本から12本に減らしたことに大洋は不満を持ち、オフには新たに長距離砲の
ジョーイ・マイヤーを獲得する。
四球を選ぶより積極的に打って出ることを意識し、日によってグリップの位置やスタンスの広さを変えるなど変幻自在の打撃フォームから広角に安打を打ち分けた。だが、当時の外国人選手枠は2人までで、90年は助っ人が3人になったことで危機感を覚えて、本塁打を狙う打撃に修正したことで、持ち味を失ってしまう。
それを救ったのが
大杉勝男コーチだった。苦手の内角球を大杉コーチの指導で克服すると、打撃スタイルを戻したことも奏功して、2度目の全試合出場にリーグ最多安打、そしてチームメートの
高木豊との争いを制して初の首位打者に。得点圏打率3割、満塁では5割を超える勝負強さも光った。
好選手を助っ人でそろえるのが大洋の特徴なら、そんな選手であっても、あっさりとクビにするのも大洋の特徴だったといえるだろう。それは、この舶来ヒットメーカーも例外ではなかった。来日から打率3割を続けながらも、翌91年に11本塁打に終わると、解雇。
「野球は野球。チームが変わるのは問題ない」
と阪神へ。移籍1年目の92年には3度目のリーグ最多安打を放って阪神の躍進に貢献。だが、翌93年には外国人枠の問題と腰痛に苦しめられて調子が上がらず、8月に二軍へ落されると帰国、そのまま退団している。
写真=BBM