プロ野球のテレビ中継が黄金期を迎えた1980年代。ブラウン管に映し出されていたのは、もちろんプロ野球の試合だった。お茶の間で、あるいは球場で、手に汗にぎって見守った名勝負の数々を再現する。 「肩の調子は絶好調」

小早川にサヨナラ2ランを浴び、ガックリとヒザをついた江川
“空白の1日”で
巨人と契約、ライバルの
阪神や、巨人のエースに名乗りを上げていた
小林繁をも巻き込む紆余曲折を経て1979年6月に一軍デビューを果たした
江川卓。学生時代から発揮されていた“怪物”ぶりが、この“江川事件”も呼び込んだのかもしれない。
その快速球はスピードガンの数字を超える威力。終速のスピード、つまり打者の手元でも速度が落ちないのが特徴だった。そのストレートとカーブの2種類のみで真っ向勝負。数字では測れないドラマを持った投手だった。81年には20勝、防御率2.29で最多勝、最優秀防御率の投手2冠。優勝、日本一の立役者となってMVPにも輝いた。だが、その後は右肩痛との闘いに。それでも、勝ち星を減らしながらも、負けない投球を展開した。
しかし、この日は様子が違っていた。87年9月20日、
広島市民球場での広島戦。
「ストレートを思い切り投げても痛くない。肩の調子は絶好調」
と言って、中8日の先発マウンドに上がった。
実際、まるで最盛期に戻ったかのように、ストレートは走っていた。6回裏まで無失点。唯一の被安打は5回裏、
小早川毅彦に許したものだった。一方、巨人は4回表に好調の
金石昭人から1点を先制。この1点を江川が守り抜けば、
王貞治監督の初優勝に、また1歩、近づくことになる。
だが、再び小早川が打った。7回裏に江川のカーブをとらえて右翼席へソロ。一瞬で試合の流れを広島に引き寄せる。それでも巨人は続く8回表一死から
鴻野淳基が二塁打を放ち、二死後、四番の
原辰徳が中前へ適時打。再び1点のリードを奪う。
1点を追う広島は、9回裏、一番の
正田耕三から始まる好打順。だが、正田、代打の
長内孝と、いとも簡単に次々と江川に打ち取られていった。三番の
高橋慶彦は一、二塁間へのゴロ。一塁の
中畑清が好捕したものの、ベースカバーに入った江川への送球が逸れて内野安打に。高橋は二盗を決めて二死二塁。打席に入ったのは小早川だった。
2ボール2ストライクから、江川が投じたのは渾身のストレート。捕手の
山倉和博はタイムを取り、カーブを要求したが、江川は拒否。自身のトレードマークでもある内角高めの速球で、真っ向勝負を挑んだ。だが、小早川は「7回に打ったカーブはない」とストレート狙い。それが奏功する。2打席連続で右翼席へと運ぶ、サヨナラ2ラン本塁打となった。
「ストレートに懸けてみよう」

日本シリーズ後の11月、突然の引退会見を開いた
報道陣に囲まれた江川は、人目をはばかることなく号泣していた。いつもはクールな男の涙に誰もが驚いたが、このとき、その真意を知る者は誰ひとりとしていなかっただろう。江川は27日の阪神戦(後楽園)にも登板してシーズン13勝目。
西武との日本シリーズでも8回2失点の好投を演じた。
だが、11月12日、突然の引退会見。会心のストレートを小早川に打ち砕かれた瞬間、引退を決意したことを打ち明けた。のちに、こう振り返っている。
「あるべき姿の江川卓、すなわち、ストレートに懸けてみよう。それがダメだったら、これで“おしまい”だと、僕は心に念じていた」
87年は後楽園球場のラストイヤー。“怪物”が東京ドームで投げる姿は見られなかった。
1987年9月20日
広島―巨人21回戦(広島市民)
巨人 000 100 010 2
広島 000 000 102X 3
[勝]白武(4勝3敗1S)
[敗]江川(12勝5敗0S)
[本塁打]
(広島)小早川20号、21号
写真=BBM