現在、プロ野球では二番に強打者を置くのがトレンドになっている。メジャー発祥のトレンドだが、日本でも巨人やDeNAなどがこれを取り入れている。ただ、二番に高いバッティング能力を持つ選手を置くことは、過去にもさまざまなチームが試しており、時に球界屈指のバッターが二番に据えられることもあった。そこで今回は、そんな「恐怖の二番打者」と恐れられた選手を紹介する。 「ビッグバン打線」の中心
●小笠原道大
小笠原道大は日本ハム、巨人でクリーンアップを務めた球界屈指の強打者だが、パ・リーグのファンにとっては「恐怖の二番打者」という印象も強いだろう。小笠原は入団3年目の1999年に打力と走力を買われて二番に定着。このシーズンは打率.285、25本塁打を記録し、翌2000年も打率.329、31本塁打、102打点と従来の二番打者のイメージを覆す成績を残した。当時の日本ハム打線は「ビッグバン打線」と称されたが、その中心は間違いなく小笠原だったといえるだろう。
卓越したバットコントロール
●篠塚利夫
1980年代の巨人打線を牽引したレジェンドの一人である篠塚利夫(1992年6月30日以降の登録名は篠塚和典)も、「打てる二番」として他チームから恐れられた存在だ。シーズン半ばから二番での起用が目立った1984年は首位打者に輝き、113試合を二番・スタメンで出場した翌1985年も打率3割を超える活躍を見せた。卓越したバットコントロールと、ここ一番での一発が期待できるパワー、さらに華麗な守備と、まさにオールマイティーな活躍を見せた選手だった。
二番で39本塁打
●アダム・リグス
2005年にヤクルトに入団したアダム・リグスは、その年に規定打席未到達ながら打率.306、14本塁打と目立った活躍を見せ、翌2006年は主に二番で起用されることとなった。これが大当たりで、なんと39本の本塁打を記録。残念ながら
タイロン・ウッズの47本塁打には及ばず、最多本塁打のタイトルは獲得できなかったが、破壊力抜群の二番打者だった。大きな期待を持って迎えた2007年は、ケガの影響で37試合の出場にとどまり、2008年に不振から構想外となって退団。4年間の在籍期間ながら、記憶に残る助っ人「恐怖の二番打者」だった。
「ダイハード打線」をけん引
●ペドロ・バルデス
2001年から2003年にかけてのダイエー打線は「ダイハード打線」と呼ばれていたが、その中心選手の一人がペドロ・バルデスだ。2001年に入団したバルデスは120試合で二番に起用され、打率.310、21本塁打、81打点と抜群の成績を残した。バルデス、
井口資仁、
小久保裕紀、
松中信彦、
城島健司が並ぶ打線は他球団にとって恐怖でしかなかっただろう。最終的にバルデスは4年間チームに在籍し、通算打率は.302。通算本塁打は86本と優秀な助っ人だった。
イチローに次ぐ打率
●山本和範
「恐怖の二番打者」「バントをしない二番打者」というフレーズで有名なのが山本和範。近鉄を解雇された後にバッティングセンターに勤めながら技術を磨き、南海に入団したという異例の経歴の持ち主だが、巧みなバットコントロールで常に打率3割前後の成績を残した。キャリア晩年の1994年には二番でレギュラー起用され、首位打者の
イチローに次ぐ打率.317を記録するなど、打てる二番として活躍した。
画期的だった「流線型打線」
●豊田泰光
1950年代の西鉄を象徴するのが「流線型打線」。出塁率の高い一番と強打の二番で早々に得点を奪うという、まさに現在のトレンドそのものの打線だったが、豊田泰光はここで二番を務めた。入団1年目からレギュラーとなった豊田は、シーズン終盤から二番で起用されるようになり、最終的にリーグ2位となる27本塁打を記録。翌シーズンは首位打者も獲得している。現在よりも「二番には小兵タイプを置くこと」が当たり前だった当時、二番に強打者を置くことは画期的だったが、その起用に見事に応えたといえる。
今シーズン、主に二番で起用されている選手の中で際立った成績を残しているのが巨人の
坂本勇人。2019年8月1日時点で打率.314(リーグ3位)、29本塁打(リーグ1位)と、過去の恐怖の二番打者を上回る成績だ。これまでにも大きな活躍を見せてきた坂本だが、今シーズンの結果次第では、上で挙げた選手たち以上の「最強の二番打者」として語り継がれることになるだろう。
文=中田ボンベ@dcp 写真=BBM