プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。 日本一イヤーの84年が完成形
長い暗黒時代を抜け出し、広島が初のリーグ優勝に輝いた1975年。エースは完全試合を含むノーヒットノーラン3度、20勝で最多勝、沢村賞に輝いた
外木場義郎だった。豪快なフォームで真っ向勝負を繰り広げた2年目の
池谷公二郎も18勝と台頭。防御率のチーム1位は15勝の
佐伯和司だった。
2度目の優勝、初の日本一となった79年にはクローザーとして
江夏豊が君臨。その79年に新たなエースとして名乗りを上げたのが、江夏がいながらも12完投、2年連続2ケタ勝利となる17勝を残した右腕の北別府学であり、セットアッパーとして頭角を現したのが、1年目の77年に初登板で炎上してシーズン防御率135.00という、どん底から這い上がってきた左腕の
大野豊だった。

広島・大野豊
広島は翌80年もリーグ連覇、日本一。北別府は12勝と勝ち星を減らしたものの、わずか5敗と貯金を稼ぎ、「福士明夫」から改名して再出発した
福士敬章がチーム最多の15勝、先発に定着した
山根和夫が14勝を挙げた。“投手王国”の確立が、黄金時代を呼び込んでいく。

広島・山根和夫
4年ぶりリーグ優勝、日本一となった84年には、まさに盤石。このシーズンの筆頭格は自己最多の16勝を挙げた山根で、北別府、先発に回った大野、83年に自己最多の15勝で大ブレークした左腕の
川口和久と、右腕と左腕、タイプも多彩な投手陣が躍動。さらに、リリーバーとして投げまくったのが
小林誠二だ。優勝決定試合では
古葉竹識監督から先発に抜擢されて完投勝利、これで規定投球回にも到達して、大野を抜いて防御率2.20で最優秀防御率にも輝いた。
日本シリーズでは初優勝の75年に完敗した阪急と激突。“投手王国”の投手たちは、三冠王の
ブーマーを徹底した内角攻めで封じ込めることに成功する。どういうわけか日本シリーズを苦手にしていた北別府とは対照的に、“日本シリーズ男”と言われたのが山根だった。79年に2勝で最優秀投手、翌80年にも2勝で優秀選手に選ばれ、この84年には初めて胴上げ投手に。ノーワインドアップからの快速球やシュートでシリーズ通算5勝2完封。翌85年から肩痛に苦しめられることになる右腕にとって、集大成となるシーズンだった。
続く86年には、ドラフト1位で入団してビッグマウスで騒がれた右腕の
長冨浩志が有言実行の10勝、ドラフト外から8年目に遅咲きの花を咲かせた
金石昭人が12勝。左サイドスローの
清川栄治が“中継ぎのスペシャリスト”として台頭しただけでなく、クローザーに定着したのが“炎のストッパー”
津田恒実だった。
「津田のために」20世紀ラストV

広島・津田恒実(左)、長冨浩志
1年目の82年に11勝を挙げて新人王、翌83年にはリーグトップの勝率.750で先発の一角を担った津田だったが、相次ぐ故障に苦しめられ、その翌84年オフには世界で初めてといわれる中指じん帯の摘出手術。長いイニングは難しいとリリーフに回ったことが完全開花につながった。
優勝決定試合では北別府にマウンドを譲られて胴上げ投手に。2年連続で三冠王に輝いたバースをして「ツダはクレイジーだ」と言わしめた“一球入魂”の真っ向勝負はファンだけでなく、相手の打者をも魅了した。一方、川口も本格的に開花して、以降6年連続2ケタ勝利。その間、3度の奪三振王にもなった。
91年には悪性の脳腫瘍で離脱した「津田のために」と“投手王国”は一丸となり、2年目にして17勝、防御率2.44で投手2冠、MVPに輝いた右腕の
佐々岡真司を筆頭にリーグ優勝。翌92年には17年目の北別府が14勝を挙げて通算200勝に到達したが、その翌93年、32歳の若さで津田が死去、続く94年には
紀藤真琴が16勝を挙げたが、オフには北別府が引退、川口はFAで
巨人へ去り、いつしか“投手王国”は過去の栄光となっていった。
若き佐々岡が先発、リリーフとフル回転する中、ベテランの大野が97年には42歳で2度目の最優秀防御率。ただ、これが広島における20世紀で最後の投手タイトルとなった。
写真=BBM