プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。 若武者たちの中にいた“最後の南海戦士”
1988年、記念すべき創立50周年を迎えた南海だったが、9月にはダイエーへ球団を譲渡。本拠地も大阪から福岡へと移転することになった。74年から長い暗黒時代にあったホークスは、20世紀も終わりに近づいた99年、九州で初優勝、そして日本一に輝くことになる。
打線には若武者が並んでいた。四番にいたのが
小久保裕紀だ。五番で続くのが
松中信彦。ともに逆指名でダイエーへ入団した強打者だが、王監督に「四番を外してください」と直訴するほど小久保は不振に苦しみ、後半戦に入って本領を発揮するようになったものの、犠打やエンドランなど、チームバッティングで打線を支えた。
小久保と良きライバル関係を築いた松中はレギュラー定着1年目で、のちに平成で唯一となる三冠王に輝く打棒の片鱗を見せるにとどまっている。一方、六番を打った司令塔の
城島健司は完全に覚醒。初の全試合出場で打率3割をクリア、五番に座ることも多く、リードでも投手陣から信頼を集めるようになっていく。
優勝決定試合で決勝本塁打を放ったのが、九番や三番が多かった
井口資仁で、すでに主力にはなっていたとはいえ、まだブレーク前といえる。“平成の韋駄天”
村松有人は控えも多かったが、主にリードオフマンとして打線を引っ張ったのが堅守巧打の
柴原洋だった。
選手会長としてチームを支えたのが
浜名千広。ただ、いずれも九州へ移転してからの新戦力。そんな若武者たちの中で、主に小久保の前を打つ三番で打線を支えたのが指名打者で、ドラフト5位で88年に入団した“最後の南海戦士”でもある吉永幸一郎だ。92年に正捕手の座を確保し、一塁手となった97年には福岡ドーム初のゲーム3本塁打を記録した和製大砲。同じく“最後の南海戦士”で、代打やユーティリティーとして支えた
大道典良や
柳田聖人とともに、暗黒時代を知る男たちが支えた栄光でもあったのだ。
長く低迷を続けていたチームが、球団の経営が変わり、本拠地が移ったところで、そう簡単に優勝できるものでもない。ただ、主砲の
門田博光は移転とともに
オリックスへ去ったが、大阪時代から強打者は並んでいた。90年代は、そんな男たちが奮闘し、そして去っていった歴史でもある。
福岡へ移転したことで“地元出身の選手”となり、その陽気なキャラクターもあって人気を集めたのが
山本和範(カズ山本)。“門田2世”と期待された
岸川勝也、勝負強さを誇った
藤本博史もいた。新生ダイエーで打線の代表格となったのが
佐々木誠だ。門田は91年に復帰したものの、92年オフに引退。ユーティリティーとしてチームを支え続けたのが
湯上谷宏は2000年の日本シリーズまでプレーを続けたが、山本、藤本、岸川、そして佐々木の姿は、初優勝のチームにはなかった。
90年代に加速した世代交代

ダイエー・山本和範
近鉄を戦力外となって南海に“拾われた”山本は、80年代後半は門田とクリーンアップを形成したが、95年オフに自身2度目の戦力外で近鉄へ“復帰”。岸川は94年シーズン途中に
巨人へ、藤本は98年シーズン途中にオリックスへと移籍していく。
対照的に、91年から2年連続でリーグ最多安打を記録し、92年には首位打者、盗塁王にも輝いて“最もメジャーに近い男”と言われた佐々木誠の移籍は大々的だった。93年オフ、投手の
村田勝喜と
橋本武広ら3人と、
西武で主軸を担っていた
秋山幸二ら3人との大型トレード。佐々木は翌94年に盗塁王となるなど新天地でも戦力となった一方、西武の黄金時代を知る秋山は、その翌95年に同じく西武からFAで移籍してきた
工藤公康とともに、ダイエー黄金時代の礎となっていく。
ダイエーは2000年にリーグ連覇。吉永は規定打席に届かず、オフにトレードで巨人へ移籍していった。一方、城島と井口は故障に苦しんだものの、小久保と松中は30本塁打、100打点をクリア。初めて打率3割を突破した松中はMVPに選ばれた。そして21世紀。若武者たちの活躍が、さらなる黄金時代へとホークスを牽引していくことになる。
写真=BBM