昨年、セ・パ誕生70周年の節目を迎えたことで、あらためて1980年代という、少々野蛮さもあったが、プロ野球が熱かった10年間を1年1冊でまとめていく『週刊ベースボール別冊よみがえる1980年代のプロ野球シリーズ』をスタート。2月28日には第4弾として1988年の特集を発売した。 ブレーブスは永遠じゃなかった?

1988年編の表紙
1988年は、パ・リーグにとって良くも悪くもにぎやかな1年となった。不惑の大砲と言われた南海・
門田博光が打ちまくっていたと思ったら、その南海ホークスのダイエーへの身売りと福岡への移転が決まった。
さらに10月19日には川崎球場での
ロッテ─近鉄のダブルヘッダー、あの「10.19」に加え、阪急のオリエント・リース(
オリックス)への身売りも発表されている。
今なら、確実に、しかも劇的にリーグ優勝が決まる日に、なぜ新球団の会見を行ったのかと思うかもしれない。
あと1日待てばマスコミの扱いも大きくなっただろうに、と……。
ただ、会見を準備したのが、前日なのかもっと前かは分からないが、その時点で「10.19」が、あれほどすごい戦いになるとは誰も予想していなかった。あの日の試合は、いくつもの紙一重の偶然が重なりあって生まれた奇跡のような名勝負だった。
まず、ダブルヘッダーという舞台。1試合目は延長なし、2試合目は4時間を超えて新しいイニングには進まない、という特殊な“舞台条件”があった。
しかも最終戦を迎えていた近鉄の優勝への条件は2戦全勝だけ。引き分けさえ許されぬ展開だ。
結果も1試合目が逆転勝ち。2試合目も逆転でそのまま勝利を決めたかに思えたが、近鉄はエースの
阿波野秀幸投入が裏目に出て同点にされた。
しかも、そのまま終わったわけではない。9回裏にはロッテの
有藤道世監督が罵声を浴びながらも、9分間の抗議で時計を進める。
近鉄は10回表が最後の攻撃となり、その裏、ロッテも無得点で引き分け。優勝は全日程を終えていた
西武のものとなった。
加えれば、放映権を持っていたテレビ朝日が、久米宏さんが司会の人気番組『ニュースステーション』の中で試合中継を流したことで、お茶の間にも非日常のスリリングな臨場感が伝わったことも大きかった。
割を食ったとは言わないが、オリックスのスタートは地味な扱いになった。本拠地が移転するホークスに比べ、その時点では「阪急がオリックスに代わるだけ」と思われていたこともある。
23日、西宮での最終戦セレモニーで
上田利治監督も「ブレーブスはファンのもの」と力説している。2年後、勇者が青波にあっさり変わるとは想像もできなかったのだろう。
最終戦セレモニーと言えば、6、7年ほど前になるが、この年限りで引退した世界の盗塁王・
福本豊さんに「阪急の終焉と一緒に引退しようと思ったんですか」と聞いたことがある。
すぐさまあの声で「ちゃう」と言われた。
「上田さんが間違ったんや」
10月23日、西宮でのセレモニーで上田監督は「チームを去る山田(久志)、福本」と言った。
山田さんはすでに引退を明らかにしており、上田監督が「きょうでやめる山田、残る福本」と言うつもりが言い間違え、福本さんは驚きながらも、「チームも変わるし、訂正するのも面倒だから、もうええわ」と思ったという。
この割り切り方も天才・福本さんらしい。
ただ、上田監督は本当に言い間違えたのだろうか。
そのとき福本さんは「俺をコーチにして、カドやんの相手をさせたかったんちゃうかな」とも言ってた。カドやんとは、南海・門田さんだ。家族もあって福岡への引っ越しを嫌がり、関西球団への移籍が濃厚と言われていた。
ただ、門田さんは40歳の年齢に加え、球界屈指の個性派選手だけに、取るのはいいが、チームの和を乱さないか、の声もあった。
福本さんは門田さんがリスペクトしている数少ない選手の1人でもあった。
当時の上田監督は新球団から監督就任要請を受けながらもまだ返事はしていなかった。「なのにそこまで考えるかな」と思いながらも「上田さんならするかも」とも思った。
何度か取材をさせていただいたが、非常に頭がよく、また監督時代は勝利のために非情にもなれた方だった。
実際、本人にこのときのことを聞いたこともあるが、「フクはそう言っていましたか」とだけ言い、その先はなかった。
上田さんが亡くなった今、前代未聞の引退劇の真相は藪の中から、もう出てこない。
文=井口英規