一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 ヤクルト・奥柿幸雄の悲劇
今回は『1970年12月14日号』。定価は80円。
高校三羽烏・箕島高の
島本講平の二刀流挑戦が話題になっていた。
彼が入る南海監督は、もちろん
野村克也であり、むしろ野村が乗り気だった。
野村監督はこう言っていた。
「私は捕手で四番、監督をやってきた。これは誰もやったことがない。今度は島本君が四番で投手をやってほしい。これは島本君以外にできる人がいない」
以前の回で野村監督が外野手の
広瀬叔功を投手で起用した話を書いた。
のちになるが、解説者・野村は、
日本ハム時代の
大谷翔平が二刀流を目指すと知ったとき、当初は否定し、その後で肯定した。
広瀬、このときの島本、
阪神監督時代の
新庄剛志もそうだが、近鉄・
三原脩監督がやった
永淵洋三の二刀流を見て、実は、自分も一度は誰かにやらせてみたかったのかなと思う。
仰木彬監督に怒ったのも、実は嫉妬心もあったのかもしれない。
「先にやりやがって」と。
低調に終わった現役ドラフト。リストアップされた選手は非公開だったが、そこにとんでもない大物がいた。
ヤクルトの
高倉照幸だ。かつて西鉄黄金時代の斬り込み隊長として鳴らし、この年は規定打席には足りなかったが、打率.312をマークしていた。
ただ、翌年から三原脩の監督就任が決定し、コーチには西鉄時代に確執のウワサがあった
中西太が就く。
ほされる可能性もあった高倉のため、と思って、球団はこのドラフトに高倉をエントリーしたらしいが、買い手がつかず、しかも、その話が本人にも届いてしまった。
プライドを傷つけられた高倉は、自ら退団を申し出、任意引退となったようだ。
さらにドタバタ話をいくつか。
西鉄を壊滅状態に追い込んだ黒い霧事件だが、他球団にもたくさん火種があり、それは週刊誌などではいまだ盛んに取りざたされていた。
この号でもあれこれ書いてあったが、書き方があいまいなので引用はやめておく。
ヤクルト・
奥柿幸雄の失踪事件は、また違うが、野球界によくあるものが発展してしまったケースだ。
11月3日、奥柿は秋季練習を欠席。そのまま2、3日行方が分からなくなり、失踪事件として家族が警察に届け出をしかけたというが、姿を現し、そのまま引退を決めた。
しばらくしてからだが、本人は、
「早くプロの汚れ切った気持ちを整理して再起したい。地道なサラリーマンが向いているのかもしれないですね」
と話していた。
奥柿は入団時、
王貞治2世とも言われ注目されたスラッガーだったが、ある意味、性格が素直過ぎ、コーチの指導を「聞きすぎて」フォームがバラバラになった。
この手に話は球界に多い。問題はそういう選手はたいてい人柄がよく、コーチもまた「選手のため」と思っている(思い込んでいる)ことだ。
実は悪意以上に、他人の好意を跳ね返すのは簡単ではない。
では、またあした
<次回に続く>
写真=BBM