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プロ野球20世紀・不屈の物語

4人による盗塁王争い。わずか1個の差で“青い稲妻”松本匡史を破ったツバメの青き(?)韋駄天/プロ野球20世紀・不屈の物語【1981年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

最初に先頭を走ったのは河埜



 肩の手術から伝説の“地獄の伊東キャンプ”を経て、セ・リーグを代表する韋駄天へと名乗りを上げた巨人の“青い稲妻”松本匡史については紹介している。広島高橋慶彦と激しく盗塁王を争い、この2020年も残るセ・リーグ記録の78盗塁を決めた松本だが、最初に盗塁王を争ったのは1981年のこと。巨人では前年オフに長嶋茂雄監督が退任、王貞治が現役を引退して助監督に就任し、新人の原辰徳が加入したことで、内野で中畑清篠塚利夫らのポジション争いが激化するなど、とにかく激動だった時期でもある。

 これも重複するが、この81年、松本は33盗塁。最終戦まで競ったが、わずか1盗塁の差で盗塁王を逃し、この悔しさをバネにして翌82年に盗塁を量産して初の盗塁王、その翌83年には新記録を樹立している。ただ、82年は高橋に大差、83年は競ったものの6盗塁の差。盗塁王レースとしては81年のほうが激しかった。しかも、タイトルを争ったのは4人。当初、松本は4番手で、3人を追う立場だった。

 ライバルの1人は、チームメートで遊撃手の河埜和正。ポジション争いを繰り広げた内野陣にあって唯一、その牙城に寄せ付けなかった内野陣の“キャップ”で、4月を終えた時点でトップを走っていたのが河埜だ。リードオフマンの印象が強い松本だが、この81年は出遅れもあって規定打席には届かず。もっとも一番が多かったのも河埜だった。河埜を本命とするなら、対抗馬はライバルの阪神から。同じリードオフマン、そして遊撃手の真弓明信だ。“猛虎フィーバー”の85年に一番打者ながら34本塁打を放ち、破壊力ある斬り込み隊長というインパクトに上書きされているが、この81年は、どちらかといえば攻守走の三拍子がそろった中距離ヒッターで、数で本塁打を盗塁が上回ることも多かった。

 だが、そんな2人に食らいつき、たちまち追い抜いていったのは、不動のレギュラーといえる選手ではない。今風にいえば“足のスペシャリスト”になるが、当時の言い回しでは“代走屋”。ヤクルトの青木実だった。早々にバットで挫折して、「俺は足で勝負するしかない」と、必死に走塁技術や投手のクセを研究するようになった青木は、78年にはシーズン5安打ながら15盗塁を決めて、ヤクルト初優勝、日本一に貢献。阪急との日本シリーズでも打席はなかったが、1盗塁をマークしている。プロ入りは松本が1年の後輩になるが、ともに54年に生まれた同い年。81年は、4月は盗塁がなかった松本の一方、やはり代走でのスタートした青木は4月だけで5盗塁を決めて、トップを走る河埜を追いかけた。

着実に追い上げた真弓


 序盤は本命の河埜と、“大穴”青木の盗塁王レースだったが、5月に早くも青木に追い風が吹く。若松勉、スコットら、外野陣に故障が続き、30日の中日戦(ナゴヤ)で初めて一番打者として先発出場。そこから青木はバットで追い風をとらえる。スタメン初打席で二塁打を放って勢いに乗ると、以降13試合連続安打。盗塁も6月までで20盗塁として、河埜に7盗塁の差をつけて大きく引き離した。

 7月に入って追い上げてきたのが真弓、そして松本だ。バットが湿ったことで盗塁も失速した青木の一方で、すさまじい加速を見せたのが松本。その松本も8月に入ると失速し、河埜、真弓にも抜かれて4位に転落した。序盤の貯金もあって、どうにかトップを維持していた青木だったが、9月には松本も復調、河埜と真弓も着実に追い上げてくる。9月を終えたところで、青木と松本が28盗塁で先頭に並び、真弓が26盗塁、河埜が25盗塁。そして10月、松本と青木は、すさまじい勢いでラストスパートをかけていく。

 河埜は1盗塁を加えたのみで、3位でフィニッシュ。松本は5盗塁を決めて2位、青木は6盗塁、シーズン34盗塁で盗塁王に。初のタイトルは、キャリア唯一のタイトルでもあった。打撃が狂ったことで翌82年から出場機会を減らしていった青木は、81年の盗塁王レースでは4位に沈んだ真弓の打棒が爆発した85年、31歳の若さで現役をで引退している。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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