史上最強のセカンド

横浜・ローズ
優良助っ人外国人を獲得するのは至難の業だ。メジャーで実績のある選手でも日本の野球への適応に苦しみ、期待外れの結果に終わったケースは数知れない。1年目に活躍しても、研究された2年目以降は苦手なコースや球種で徹底的に攻められ、成績が下降することが多い。その中で、毎年ハイレベルな結果を残して「史上最強のセカンド」の呼び声が高いのが横浜(現
DeNA)で活躍した
ロバート・ローズだ。
ローズはメジャーで将来を嘱望される若手だった。ところが1992年5月、遠征の移動で乗車していたバスが交通事故を起こして足首を捻挫。その後も右ヒジ痛などに悩まされ、メジャー通算73試合で打率.245、5本塁打と目立った活躍ができなかった。横浜に入団したのは93年。同時期に入団したメジャー通算70本塁打の
グレン・ブラッグスのほうが注目度は高かった。
「守備の人」の触れ込みだったローズは来日1年目の開幕戦で犠打を命じられている。打撃は首脳陣にあまり期待されていなかったが、その期待を良い意味で裏切った。体の近くに極限までボールを引きつけて広角に打ち分ける打撃技術で1年目に打率.325、19本塁打、94打点で打点王を獲得。その後も「マシンガン打線」の四番として、98年に38年ぶりのリーグ優勝に貢献した。圧巻は99年。打率.369、37本塁打、153打点で首位打者、打点王を獲得。日本でプレーした8年のうち7シーズンで打率3割をマークと巧打を誇った。
二塁の守備も華麗とは言えないが強肩を生かしたガッツあふれるプレーが目立った。特に併殺を取るときの一塁への送球は評価が高い。突っ込んでくる走者を怖がらずに、体勢を崩しても横手投げのほうが強い送球ができた。正確なスナップスローに定評があり、遊撃・
石井琢朗(
巨人一軍野手総合コーチ)とのコンビネーションによる併殺は芸術と称された。
ローズは日本で長くプレーした
アレックス・ラミレス(現DeNA監督)、
タフィ・ローズ(元近鉄、巨人、
オリックス)のように日本語で積極的にチームメートとコミュニケーションを取るタイプではなく、「僕は助っ人外国人だから」と日本語はほとんど覚えなかった。日本食も苦手で、特に「刺し身」は打ち崩せない敵。日本そば、ラーメン、牛丼は食べられたが、遠征先ではもっぱらファストフードが主食となっていた。地方遠征に行くと、通訳はハンバーガー店、ドーナツ店を探すのが第一の仕事だったという。休日や遠征先でのプライベートタイムの過ごし方は映画鑑賞。初めて見たのは『サウンド・オブ・ミュージック』。子どものころに感動し、それからすっかりローズの生活の一部となった。「日本の映画館は高い」と不満は多かったが、何よりも「英語」を聞けることが、異国の地で暮らすローズをリラックスさせた。
強かったチームへの愛着

勝負強い打撃を誇ったローズ
アメリカンフットボールも好きで、高校時代はランニングバックを務めた。アメフトではタックルされるほうのポジションだったが、野球の乱闘シーンでは激しいタックルを何度か披露。「味方にサポートが必要なときは行くしかない」と闘志を前面に出した。
全盛期だった99年6月には突如引退宣言をして周囲を驚かせたことも。2000年に打率.332で2年連続リーグ最多安打をマークしたが、条件面で折り合いがつかずに同年限りで横浜を退団。02年に
ロッテと契約を結んだが、2月の紅白戦3試合で安打が出ずに、「野球に対する情熱がなくなった」と言い残して19日に退団してしまった。
個性的な振る舞いで騒がせたことはあったが、日本や横浜に対する愛着は強かった。横浜で活躍していたときにダイヤモンドバックスからメジャー契約の打診を断っている。インタビューでは自身について多くを語らなかったが、
谷繁元信、石井琢朗、
鈴木尚典らチームメートの話になると「一緒にプレーして彼らが成長していく姿をいるのが本当に楽しみなんだ」とうれしそうに話していた。
引退して10年後の12年4月4日には、横浜スタジアムの試合前セレモニー「レジェンド対決」に当時の横浜のユニフォームを着て登場。絶対的守護神として活躍した
佐々木主浩との対決で、当時
中日の現役の選手だった谷繁元信が捕手を務めた。満面の笑みを浮かべたローズは現役時代を彷彿とさせるスイングから左前打。「このような形で戻ってこられてうれしい。ベイスターズをずっと応援しているので皆さんも一緒に応援してください」と呼びかけ、大歓声を受けた。NPB通算1039試合出場、打率.325、167本塁打、808打点。横浜ファンに愛された球史に残る助っ人外国人だ。
写真=BBM