3年前に創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 全国中継にに浮かれた、お茶目な奥宮捕手
今回は『1972年8月21日号』。定価は100円。
前年の1971年、大洋はヤクルトと開幕戦。大洋はエースの
平松政次だったが、ヤクルトの
三原脩監督はプロ4年目、前年4勝の
松岡弘を選んだ。実はこの2人、岡山出身の同学年。高校時代はライバルと呼ばれたが、プロでは平松に大きな差をつけられていた。
周囲はもちろん平松の勝利を予想した。
このとき三原脩監督は、こんなことを松岡に言っている。
「きょうはきょう。負けたら負けたで、自分の納得できる投球ができていたらそれであきらめろ。あしたからまったく違う松岡になればいいんだ」
試合は松岡が1失点完投で勝利し、さらにその後、
阪神のエース、
江夏豊にも投げ勝った(完投)。
松岡は、この2勝ではっきりとした手応えを得たという。
ただし、チームの低迷期で打線の援護のない試合、エラーで足を引っ張られた試合も多く、終盤の6連敗もあって14勝15敗に終わった。
この72年も、7月29日時点で9勝11敗。納得できなかったのは前年から続く
巨人戦7連敗だった。
挽回の機会が7月30日に回ってくる。先発は松岡、捕手は正捕手の
大矢明彦ではなく、
奥宮種男だった。
奥宮は試合前、小倉に住む母親に電話をした。テレビに映ると思ったからである。
当時のテレビ中継は20時から。徐々に奥宮の顔が生き生きとしてくる。5回裏一死、ちょうど20時ごろ、ピンチでもないのに、なぜか奥宮がマウンドに来た。
「どうした」。松岡が奥宮に言う。
「テレビですよ、テレビ。始まったでしょ。松岡さんが映るはずだから隣にいたら映ると思って」
当時、全国放送はほぼ巨人戦のみだった。
松岡は思わず吹き出した。
「バカ、いまはそんなときじゃないだろ。早く帰れ」
「あと10秒。こうやってヒソヒソやっていたら巨人はかえっていろいろ考えるんじゃないですか。攻め方を変えるんじゃないかって」
このやり取りは20時半にもあった。
「松岡さん、さっきはひょっとするとコマーシャルで僕は映ってないかもしれない。もう一度」
一度はあきれて「いい加減にしろよ」と言ったが、
「聞いてください。おふくろが小倉でテレビを見ているんですよ。試合前に連絡しているんです。いいでしょ」
と言われ、
「そうかおふくろさんが見ているのか。でもあまり長話をすると、バックが心配するから今はこれくらいにしよう。これからもときどき来いよ。そうだ、帰るときはマスクを取って笑って帰れよ」
と松岡は答えたという。
結局、3安打の完封勝利。
「強気で攻めたのがよかった。忘れられない1勝になります」
と松岡は笑顔を見せた。
この話、オチがある。試合後、奥宮がしょんぼりした顔で、
「松岡さん、申し訳ない」
と謝ってきた。理由は、
「小倉はテレビじゃなく、ラジオ中継だったらしいんですよ」
また、あした。
<次回に続く>
写真=BBM