角度のあるピッチング
春季キャンプの中日のブルペン。投手陣を一目見てその高さが際立つのが、身長201センチ左腕のカイル・マラーだ。
2月3日にキャンプで初のブルペン入りすると角度のある力強い直球、カーブ、チェンジアップなどを投げ込んだ。他球団のスコアラーは「もう少し荒れているかなと思っていたが、まとまっている。特に変化球は直球と同じ腕の振りで、フォームが緩まない。これからどんどん良くなるだろうし、勝てる投手の雰囲気がある」と警戒を口にする。
オフに
小笠原慎之介がポスティングシステムを利用し、ナショナルズに移籍。昨年は24試合登板で5勝11敗、防御率3.12と大きく負け越したが、投球内容は決して悪くない。4年連続規定投球回数に到達し、
高橋宏斗とともに先発の軸として稼働した。小笠原の穴を埋めるために
柳裕也、
梅津晃大、
大野雄大の奮起や
松木平優太、ドラフト1位左腕・
金丸夢斗の台頭が期待される中、助っ人左腕の活躍もチームの命運を握る重要なポイントになる。
落合政権下の先発左腕

日米で結果を残した左腕・チェン
落合博満元監督の下で黄金時代を築いた2000年代、10年代前半に左腕エースとした活躍したのが
チェン・ウェインだ。台湾国立体育大の学生だった18歳のときに中日に入団すると、05年に一軍デビュー。翌06年秋に左肘の靱帯断裂と疲労骨折が判明し、07年は育成契約を結んでリハビリに打ち込み、その後の飛躍につなげた。支配下に復帰した08年は先発、救援で39試合に登板して7勝6敗12ホールド、防御率2.90をマーク。先発に定着した09年に24試合に登板して8勝4敗、防御率1.54で最優秀防御率のタイトルを獲得した。10年は自己最多の13勝をマーク。落合政権に不可欠な先発の核になった。
11年オフにメジャー挑戦を決断し、オリオールズに移籍。14年に16勝を挙げるなど2ケタ勝利を3度マーク。メジャーで8年間プレー後は
ロッテ、
阪神に在籍し、日米通算96勝を積み重ねた。その後は左肩の手術を受けて無所属でリハビリに打ち込んだ時期があったが、38歳の昨年はアメリカ独立リーグでプレーし、17試合登板で、5勝5敗、防御率6.37だった。
郷に入っては郷に従え
当時中日の二軍監督だった野球評論家の
佐藤道郎氏は、週刊ベースボールのコラムでチェンについてこう語っている。
「ブルペンじゃすごい球を投げていたんだけど、試合になるとワンバウンドしたり大荒れになる。早く一軍で投げたいという意識が強い子だったけど、それが力みにつながったんだろうね。俺はこのままじゃダメだなと思って、投手コーチに言って、2週間くらいピッチングをさせず、キャッチボールと遠投、シャドーピッチでフォーム固めをさせた。嫌そうな顔をしていたけど、結果的には、故障で回り道しながらも一軍やメジャーでも活躍する大投手になった。少しはあのときの練習が役に立ったんじゃないかな」
郷に入っては郷に従えということわざを、チェンは異国の地で実践していた。来日当初から専属通訳がつかなかったため、必死に日本語を覚えてチームメートに話しかけていた。日本で成功したいという思いを持った青年は、すぐに溶け込んだ。左右のエースとして切磋琢磨した
吉見一起とは特に仲が良く、慕っていた。現在も日本語を流ちょうに話す。異国の文化を吸収しようとする姿が、日本、アメリカと海外で活躍した要因と言えるだろう。
マラーはメジャー通算4勝と目立った実績がないが、23年にアスレチックスで開幕投手を務めるなど潜在能力の高さを評価されていた。日本で成功したいという思いは強い。ブルペンで投球後は室内練習場で
大塚晶文巡回投手・育成コーチの助言を受けながら、クイックの投球を確認する姿が見られた。
ナインや首脳陣とも積極的にコミュニケーションを取り、日本語で「もういっちょ」、「お先です」と笑顔で話す様子も見られる。27歳と選手としてもこれから脂が乗り切る時期に入る。小笠原の抜けた穴を補って余りある活躍を期待したい。
写真=BBM