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監督という仕事

森祇晶 言葉から見る監督という仕事と苦悩

 

勝つことのみが自身の価値の証明となる監督という仕事において、勝つ喜びの裏には、幾多の苦悩もまた存在する。
リーグ優勝8回、日本一6回と黄金時代を築いた西武を率いた森祇晶の言葉には、そんな監督としての矜恃と苦悩が詰まっていた。
当時の背景とともに振り返る。
構成・文=片桐完


プロ野球で勝ち続けることの難しさは、成し遂げた者でないと分らない。不滅のV9を達成した巨人川上哲治監督以来のリーグ5連覇をすべて完全優勝で果たした西武・森祇晶監督の喜びと苦悩は何気ない言葉にもよく表れていた。

「こどもの日まで待ってくれ……」(1986年4月頃)

 森監督1年目の最大の仕事のひとつはルーキー清原和博をどう使うかだった。「清原を球界の宝として育てろ」との厳命が親会社トップから出されていたと言われる。南海との開幕第2戦、6回の守りから出場、9回に藤本修からプロ初ホーマーを放ち、見事なデビューを飾らせたが、その後低迷。周囲では「ファームで鍛え直した方がいいのではないか」という声も上がっていた。

 森監督は後日、こんなふうに清原を語っている。ている。「初めてキヨを見たとき、背中から光を発しているように感じた。多数の新人を見てきたが、あんな衝撃を受けたことは後にも先にもない」。だからこそ大事に育てたかったのだ。1カ月は我慢しようと考えたのだろう。それが冒頭の言葉となった。その思いに応えて、清原は5月5日こそ無安打だったが、10日のロッテ戦(川崎)で2本塁打を含む4安打と爆発。一気にアクセル全開で、4月末に2割3分だった打率を1カ月後には3割の大台に乗せていた。

▲86年、プロ1年目の清原[写真]をスタメンで起用。開幕当初は不振だったが、森の起用に応え、最終的に新人王を獲得


「苦しみは自分に刺激を与えてくれる。耐えることは一方で人間に勇気、強さを与えてくれる」(1989年12月頃)

 森監督の西武時代、華やかな実績の谷間で屈辱の瞬間が何度かあった。その最大のものが、いわゆる「やりたければどうぞ」事件だろう。監督1年目の86年から3年連続日本一の偉業を達成した。しかし89年、首位・近鉄と半ゲーム差の3位に沈むと、堤義明オーナー(当時)から「来年はどうするの? やりたければどうぞやってください」とのフレーズを投げかけられたのである。

 暗に「辞めなさい」と言っているようなものだから、堤発言の反響は大きかった。相談した友人たちも「辞めろ」「続けろ」と二手に分かれた。そんなとき、決断を促したのは、当時、箱根でオーバーホールしていた選手たちだったという。「監督、やりましょうよ。来年はぶっちぎりで優勝しましょう」。いつもとは逆に、選手からの熱い言葉を受けて「あのときは、本当に胸に響いたんだ」と漏らした。

 後日、森監督が堤発言の背景を解説したことがある。「私はこの年で契約切れだった。つなぎと考えていた人物が3連覇してしまった。西武にとっては計算違い。次の監督を、と考えていたところにV逸。しかも契約最終年。3連覇監督を解任できないので、何とか本人から身を引くような形にできないか考えたのだろう」。“やりたければ発言”は幻の森辞任劇のプロローグというわけだ。名将の読む力はグラウンド内だけではない。

「ルールで認められたことをやって責められる世界がどこにあるんや」(1993年夏頃)

 90年からリーグ5連覇を達成した西武。他球団にしてみれば、なんとしても倒したい相手だった。93年は大沢啓二監督率いる日本ハムが常勝軍団に仕掛けた。いわゆる“バント論争”である。優勝争いを繰り広げた終盤、大沢監督は「西武の野球はバントをやるからつまらない」と批判した。確かに、西武は序盤であっても、確実にバントで走者を進塁させて得点を狙い、試合の主導権を握る展開を得意としていた。勝つ野球のベースとなるバントは森西武から欠かせない攻撃アイテムだった。

 すでに他界した大沢監督は生前「あれは森に言ったわけじゃねえ、本当は。バントの大切さは分かるが、オレが野球の魅力と考えているスピードが死んでしまうからだ」と主張していたが、論争当時は2人のキャラクターの違いもあって、メディアが面白く囃し立てた部分もあった。大沢親分は十分に計算して、森西武を挑発、心理的な揺さぶりをかけた側面は否定できない。

 森監督が漏らす。「もしあのとき、その発言を気にかけ、バントをやらず、格好よく野球をしようなどと考えていたら、優勝などできなかったろう。そんなことしていたら、きっと後悔すると思う」。ペナントレースはそんな裏舞台も巻き込みながら、動いていくものだ。

▲93年は日本ハムの大沢監督の発言をきっかけに“バント論争”が巻き起こったが、10月13日に4年連続のリーグ優勝を果たした


「彼も一人の人間だ。彼という人間を救ってくれないか」(1993年10月)

 この言葉はシーズンも終盤のミーティングでの発言。「彼」とは工藤公康。この年、西武は優勝にあと1勝まで来て足踏み。産みの苦しみを味わった。そんなころ、工藤の“舌禍事件”が起きた。スポーツ各紙に「オレはチームのために投げるのではない」という主旨の、登板拒否ともとれる発言をしたというのだ。

 工藤はマジック1となった段階で左肩の不安もあり、「シリーズ用調整に専念したい」と申し入れ、日本シリーズまで登板せずを決め込んでいた。ところが、そこからチームは4連敗。緊急事態に、工藤に先発要請がきたが「投げられません」。思わぬエースの反乱にマスコミは騒ぎ、あるコーチが「大事なときに自分のことしか考えていない選手がいる」と発言したものだから、火に油をそそぐ結果になった。優勝目前で勃発した反乱に、ナインの心も穏やかではなかったはずだ。

 ここはまずは炎を沈めねばならない。全選手を集め、その前に工藤を立たせた。「誰にも間違いはある。ああ言った、こう言ったと言っても始まらない。でも不用意な発言をしたのは工藤だ。みんなにも迷惑をかけた。謝りたいと言ってるし、監督のオレに免じて許してくれ」と話し、冒頭のフレーズにつながる。チーム内の不協和音を摘み取るのも指揮官の仕事である。

▲93年、この年15勝を挙げた工藤の発言がチーム内に思わぬ波紋を投げかけたが、森の計らいとミーティングでの言葉が騒動を沈静させた


PROFILE
もり・まさあき●1937年1月9日生まれ。大阪府生まれ、岐阜県出身。
岐阜高から55年に巨人に入団。現役時代は巨人V9時代の正捕手として活躍し、抜群のインサイドワークに加え、勝負強い打撃に定評があった。引退後はヤクルト、西武でコーチを務め、86年に西武監督に就任。94年に退任するまでリーグ優勝8回、日本一6回と黄金時代を築いた。01年から02年には横浜の監督を務め、05年野球殿堂入り。現在はハワイ在住。
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