週刊ベースボールONLINE

 





闘魂・星野仙一のあとは、岡山県の同郷で1年後輩にあたる平松政次氏に登場してもらう。大洋で201勝を挙げた大エースは巨人戦歴代2位となる51勝をマーク。自身の通算勝利数の4分の1を巨人戦からもぎ取るというまさに「巨人キラー」だった。だが少年時代は長嶋茂雄ファンであり、巨人ファン。しかし、大洋入団後ライバルとしてマウンドに上がっていたその心中を聞いた。

取材・構成=椎屋博幸 写真=BBM

裏切られた思いで

 少年時代は、長嶋(茂雄)さんが大好きな巨人ファンのソフトボールをしていた少年でした。昭和33年(1958年)、小学5年生のときに長嶋さんが巨人に入団し、デビューしました。このときのすごい活躍が少年時代の僕にとって強烈な衝撃で、たちまち長嶋さんの虜になってしまいました。そして、長嶋さんがいる巨人が好きになったんです。

 当時、大相撲も好きで、特に初代・若乃花のファン。当時は長嶋さんが活躍し、巨人が勝って、若乃花が勝つとその日一日中気分が良く、気持ち良く寝られたものです。でも、長嶋さんが打たずに巨人が勝ってもそこまでうれしくなかったんですよ。

 当時の多くの長嶋ファンは「四番・サード」にあこがれていたと思います。でも野球はピッチャーだという思いから、最初から僕はピッチャー。中学から野球部に入ってもピッチャーでした。その中でプロ野球選手になりたいと思い始めたのはやはり、長嶋さんがプロデビューされてから。どちらかと言うと「長嶋さんと一緒にやりたい」という方が強かった。

 その後、甲子園で優勝しドラフトにかかったんですが、そこではあこがれの巨人からの指名がなく社会人の日本石油に進みました。当時はほかの球団の印象があまりピンとこなかったというのもあります。

 巨人戦が中心のテレビ放映ばかりでしたから、「対大洋、対広島」という感覚しか持っていなかったんですよね。だから巨人の打順は全員言えるのですが、ほかの球団の選手はなぜか覚えていなかったんですよ。

 当時大洋のエースだった秋山(登)さんについても高校の先輩だとは知りませんでしたし、よく巨人打線を封じ込める投球をされていましたので僕にとっては「憎き秋山」だったんです(笑)。

 日本石油時代のドラフト前には巨人のスカウトから連絡などもあり、「ドラフト指名される。長年の夢が叶う」と思っていました。しかし、フタを開けると大洋がドラフト1位指名。「裏切られた」という思いだけでした。

 その中でその年の都市対抗に優勝して大洋に行かざるを得ないかな、という思いが出てきました。たとえ3回目のドラフトを待っても巨人にドラフト1位で指名されるとは限らないし、ケガをするかもしれない……子どものころの夢を断ち切るのは、かなりつらかったですよ・・・

この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。

まずは体験!登録後7日間無料

登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。

特集記事

特集記事

著名選手から知る人ぞ知る選手まで多様なラインナップでお届けするインビューや対談、掘り下げ記事。

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング