赤ヘル黄金時代のショートとして活躍した高橋慶彦。18歳でプロ入りし、広島の猛練習を生き残って頭角を現した。攻守走三拍子そろった男の傍らには常に名将がいた。 ▲古葉監督の下、猛練習を重ね広島黄金時代の主役の一人となった/写真=BBM
厳しさが優しさだった指揮官との二人三脚 1975年に高卒でプロに入った私がレベルの高さに戸惑い、自信を喪失していたときに出合ったのが当時内野守備コーチだった古葉(竹識)さんからの「プロは足だけでも飯を食っていけるんだぞ」という言葉でした。絶望感に陥っていたので、それにすがるしかありませんでしたが、足を生かすためにどうすればいいかを考えたとき、まずは出塁するためにゴロの打球を打とう、と。そのためにはどうすればいいのか。自らの長所を生かすために逆算して、正しい練習をする。何をやればいいのかすら分からなかった身でしたから、古葉さんが方向性を示してくれたことは私にとって大きなことでした。
とにかく、練習に打ち込みました。最初はマシン打撃でも芯にボールが当たりません。だけど、「下手は上手になる。上手は上手にならない」と信じて。どういうことかというと、例えば10球中5球、芯に当たる人は喜びを感じないでしょう。でも、私は当初1球。それが練習を続けていくうちに2、3、4球と芯に当たる数が増えていく。ほかの選手に比べて喜びが大きいわけですから、練習に熱が入る。すべて芯に当たるようになったとき、「プロ野球で生き残ることができる」と実感しました。
盗塁においても、
寺岡孝コーチから「アウトになってもいいからどんどん走れ」と言われたことが大きかったです。失敗を重ねながらも、経験を積んでいくことで多くのことを学ぶことができた。79年には55盗塁をマークしてタイトルを獲得しましたが、間違いなく失敗を糧にした結果でしょう。
私は1年目でショート失格となり、外野に回されていましたが、古葉さんが監督3年目の77年・・・
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