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2014広島カープ大特集 第3弾

元広島監督・古葉竹識氏が語る「勝てる組織作り」

 

好調だった序盤戦から一転、交流戦に入り苦戦を強いられているカープ。その原因はどこにあるのだろうか。1975年途中に広島のコーチから監督に昇格し、球団創設26年目にして初のリーグ優勝を成し遂げた古葉竹識氏。赤ヘル軍団を計4度のリーグ優勝、3度の日本一に導いた名将に「強きカープ」を語ってもらった。

79年に地元で2度目のリーグ優勝を決め、球場を1周する古葉監督と選手たち。この年は初の日本一へと上り詰めた


伝統の厳しい練習が4度の栄冠をもたらす


 今のカープは投手陣が少しへばっているように感じます。これまで23試合に登板し、セットアッパーとしてチームを支えてきた一岡竜司が右肩痛で6月9日に登録抹消、エースのマエケン(前田健太)も左ワキ腹の張りで先発回避がありました。本人は「行きたい」と言っているようですが、そこは首脳陣が判断したのでしょう。自らが目指している場所、メジャー・リーグでは同学年の田中将大が活躍を見せていますし、そういった“焦り”はあるのだと思いますが、我慢も必要でしょう。

 われわれが現役だったころから、「カープは鯉の季節まで」、つまりは鯉のぼりが舞う5月初旬までは良くても、その後には必ず失速するというジンクスがあると言われてきました。あの時代は先発投手を中3日、ヘタすれば中2日で投げさせることもあったのは事実です。中5日や中6日ができるということは、先発、中継ぎ、抑えがしっかりといるということなんです。そこがきちんと整備されていないと、1年を通して勝っていくことは難しいのです。

 現在、支配下選手登録できる上限は70人ですが、当時は60人。その中で相手に負けないチームを作るには、常に相手との比較。先発、中継ぎ、抑えを見て、1番手は勝っているけど、2番手は負けているな、など……。スカウトが広島にいるときは、常にチームに足りない部分について話し合いをしていました。そういったやりとりの中で獲得できたのが、左腕の川口和久(81年1位)などでした。

 当時のカープは練習が厳しかったから、選手からは敬遠されていたようです。でも、プロですから、しっかりと練習して結果を出さないとクビになる。私がカープでの監督生活11年で4度のリーグ優勝、3度の日本一に輝くことができたのは、その厳しい練習に耐えて成長できた選手たちに恵まれたということ。79年、80年には2年連続日本一となりましたが、セでそれ以降はない。それほど難しいことを成し遂げた当時のチームには本当に誇りを持っています。

スイッチヒッターが機動力野球を実現


 初優勝した当時は、山本浩二(69年1位)、衣笠祥雄(65年入団)が20代後半、そして高橋慶彦(75年3位)は高卒1年目。慶彦は内野手でキャリアをスタートさせましたが、外野に回されていました。当時の外野陣は山本と水谷実雄、そして外国人で盤石だった一方、内野ではベテラン遊撃手の三村敏之の肩に衰えが見られていました。何としてでもショートを作らなければいけない。でも、当初は三遊間のゴロを、手首を使って二塁に投げることもできない。ただ、守備さえきちんとできれば彼の足とスイッチヒッターという特性を生かせると思ったんです。コーチが必死になって指導して、ノックをたくさん打ってくれました。

 ある試合で慶彦がショートでポロッとエラーしたんです。すると内野スタンドのある場所から・・・

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