週刊ベースボールONLINE

男の生き様〜去り際の美学〜

木田優夫 だれよりもプロ野球選手を楽しんだ男

 

9月13日の石川県立野球場には独立リーグとしては異例の1万5000人の観衆が集まり、人気タレント・明石家さんまが1日コーチとして契約して、グラウンドに立った。すべては、今季限りで引退する木田優夫のためだった。ルートインBCリーグ・石川ミリオンスターズで着けた背番号「12」は永久欠番に。多くのファンに愛された木田。その野球人生は波乱万丈にも見えるが……最高だったと笑顔で振り返る。
取材・構成=椎屋博幸
写真=BBM、AP、岡田浩人


NPBで抑えられるボールは投げられない


 8月24日、石川県金沢市内のホテルで引退会見を行った木田。今季も石川ミリオンスターズの抑えとして前期、後期合わせて56試合に登板。防御率2点台の成績を残していたが、その決断は潔かった。

 今年に入り、自分の投げるボールが、どう考えてもNPBで通用する球じゃなくなった。それが引退を考えた最初なんです。いろいろな場面で、NPBで投げている自分を想像しながら投げていましたからね。今の球だと通用しない。多分、これまで培ってきた投球術、打者との駆け引きということで言えば、何とか抑えることはできるとは思うんです。ただ、そこは僕も自分が力を入れ、投げ込んだ球で勝負したい。ですが、一軍の厳しい場面で、それが投げられるか、と考えたとき、やはりそうではないと思ったんです。それに、自分がもし監督だとしても「木田を使おう」というような球は投げられていない。そう客観的に見たときに、僕の今の球では無理だと判断しました。

 悔いはないか? それはいろいろな悔いは残っていますよ。もし、あの場面で抑えられれば、もっとすごい成績を収められた投手になっていたと思う場面がたくさんありました。日本ハムを2年前に戦力外になって、その後BCリーグの石川ミリオンスターズに入ることができました。その中で、NPBにどうやって戻れるかを考え、自分のピッチングというものをゆっくり2年間冷静に見ることができました。もし、戦力外のまま引退していたら、それこそ大きな悔いが残っていたでしょう。そういう意味では冷静に自分の力の判断ができた上での引退の決意でした。

▲石川でNPB復帰を目指した木田だったが、自分のボールが通用するのか客観的に見ることができる2年間でもあった



誰のためにマウンドに上がるのか


 1987年、甲子園出場はないものの、剛速球投手として注目され、巨人のドラフト1位投手として高卒で入団。もちろん大きな期待をかけられていた。その1年目から、巨人の選手として、プロ野球選手として厳しい教育をされ、木田もその期待に応えた。そして世界最高峰の舞台に立つまでになった。

 高卒でプロに入ったとき、二軍の投手コーチが関本(四十四)さんと宮田(征典)さんでした。このお二人がいたからこそ、今の自分があります。関本さんにはよく「プロ野球選手は、周りの人の生活をかけてやっているんだぞ。打たれることでキャッチャーやほかの選手たちの生活までかかっているんだ。極端にいえば監督やコーチの生活までかかっている。それは絶対忘れるな」と言われました。そこでプロ野球の世界、野球を仕事にする厳しさへの心構えを教えていただきました。

 宮田さんには、つきっきりで投げ方の指導や、すべてを教わりました。1年目が終わったオフは12月末まで練習して、1月5日くらいから始動。マンツーマンで……もうキャッチボールの初球から「投げ方が違う!」と怒られました。それくらい徹底して教えてもらいました。また、抑え投手のルーティンなどが書かれたメモも見せてもらうなど、いろいろ教えてもらいましたね。

 その翌年には1年間、フロリダの1A(マイアミ・マーリンズ)に留学しました。このときにペーニャという投手コーチから、フォークボールの握り、投げ方を教わり、自分の武器にしました。当時の二軍監督の須藤(豊)さんがミーティングで、プロ野球で成功するには・・・

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