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【クローズアップ】苦難を乗り越え開花した理由とは?

ヤクルト・雄平 プロ野球人生をかけた決断

 

人は困難に直面したとき、その真価が問われる。特に数字で結果が表れるプロ野球選手ならなおさらのことだ。思うように結果が出ないとき、どのような方法論で突破口を開いたのか。ここでは今季、苦難を乗り越え開花した3選手をピックアップ。“突破者”たちの成功哲学とは?
※成績は6月16日現在 写真=BBM

 人生初のタイトルとなる5月の月間MVPを獲得した雄平は、「転向させてもらった球団に感謝しています」と会見場で笑顔を見せた。

 2002年のドラフトで、当時151キロ左腕として注目を集めていた18歳は、近鉄との競合の末に、当時の若松勉監督が交渉権を得てヤクルトへ入団した。大きな期待をかけられた1年目には5勝を挙げたが、防御率は5.03。04、05年には4勝しか挙げられず、06年から中継ぎとしての登板が増えていく。深刻な制球難に苦しみ、それを気にするあまり自慢の速球も鳴りを潜めていった。

 08、09年にはついに1試合登板にとどまると09年オフに、首脳陣から打者転向を打診される。高校通算33本塁打の雄平は肩の強さと打撃センスには定評があった。それでも投手としての道を断つのには時間がかかった。一度はサイドスロー転向を当時の高田繁監督に直訴。しかし翌日には「やっぱり野手でいきます」と申し出た。それだけ迷い、葛藤し、下した大きな決断だったのだ。「一度はクビになったようなもの。とにかくやるしかないです」とその後は連日、室内練習場に残り、打撃マシンと向き合った。

 10、11年は一軍出場こそなかったが、二軍ではともに90試合以上に出場し10年は打率.283、11年は.330と確実にステップアップした。そして12年には一軍で47試合に出場し、打率.280を記録するとそのオフ、小川淳司監督から外野手とワンポイントリリーフの“二刀流”を打診された。しかし、「野手1本に専念させてください」と志願。そのときにはもう覚悟は決まっていた。

 レギュラーをつかみかけた翌13年4月、さらなる悲劇が雄平を襲う。右ヒザ前十字じん帯断裂。5月に手術を受け1年を棒に振ることに。ケガ以降は二軍でも出場がなかったが、それでも一軍の舞台に戻ってきた。「悔しい気持ちを今年にぶつけている」とここまでの戦いを振り返る。初めて開幕戦で先発出場を果たすと、以降は五番に定着し、チームの中心にどっかりと座っている。月間MVPに選ばれた5月には打率.364、8本塁打、19打点。さらに猛打賞4回を含む13試合でのマルチ安打に、自身初の2ケタ本塁打と、これまでの苦労と努力が花を咲かせ始めた。

▲現在10本塁打をマークしてるが、これはセで日本人トップの成績だ



 プロ12年、野手転向5年目となった雄平は「転向したときはこういった賞を取れるとは想像していなかった。毎日をがむしゃらにやってきました」とこれまでの日々を振り返った。「だけどこれからが大事。まだ1年間一軍で出続けたことはないので、まずは一軍で毎日試合に出られるように安定した成績を残すだけです」と気を引き締めた。

 雄平には野手へ転向したときに決めたことがある。それは“全力疾走”だ。「技術はないけど走ることはできるので、そこは挑戦しようかなと思っていた」と話す。ヒザに大ケガを負っても、技術力が増してもなお、その姿勢は変わらない。

「課題もたくさんありますし、まだまだやるべきことはたくさんあるので、こういった賞をまた取れるような選手になっていきたい」

 さらなる向上心を胸に、打者・雄平は今日もひたむきにバットを振り続ける。

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