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「お金より気持ち」 黒田日本復帰の真相

 

年末に衝撃的なニュースが飛び込んできた。「黒田が広島カープに復帰!」と。今オフ、ヤンキースをFAとなった黒田博樹は、メジャー市場で目玉投手として注目され、日本円で年俸20億円台での交渉が行われているとされていた。しかし、黒田自身は、野球人生の集大成として、古巣・広島への復帰を決断した。なぜ、巨額オファーを蹴って、広島復帰を選んだのか。アメリカで黒田の取材を続けてきた記者がその真相を明かす。
文=奥田秀樹 写真= BBM、GettyImages

▲広島時代に黒田がFA宣言をしたときに、外野スタンドに残留願いの横断幕が。このような広島ファンの思いが今回も黒田の心を動かしたのか!?



 黒田博樹がMLBでのキャリアにピリオドを打った。一コマの記憶がよみがえる。今から1年前の2月上旬。ロサンゼルスでの自主トレを取材していたときだ。

 陽光の下、ブルペンで50球を投げ終え汗を拭っていると、長身で細身の若者が近付いてきた。アダム・プルトコ。2013年、UCLAがカレッジ・ワールド・シリーズを制したときの最優秀選手である。「左打者の内角に真っすぐを投げたいとき、腕の振り方はどうすればいいんですか?」の質問に、身振り手振りを交えてアドバイスする。どういった縁なのか。

「1年前UCLAの監督に、ミーティングで選手たちに何か話をしてくれないかって頼まれたことがあったんですよ」と黒田。ジョン・サべジ監督はパイレーツのゲリット・コール、インディアンズのトレバー・バウアーなどドラフト上位指名投手を育てあげた。黒田がレクチャーしたシーズンに初のアメリカ王者に輝いている。

「そのときに、身体の開きが早くなるから、自主トレの時期はスライダーは練習しない方が良い、投げるならカッターだって教わって。今もその通りにしているんです」とプルトコ。彼はドラフトでインディアンズに指名され、プロ生活をスタートさせていた。「黒田さんのようなピッチャーになりたいんです」ときっぱり言う。春めくお昼前のひととき。アメリカでアマチュアの頂点に立った投手の羨望の眼差し。実績の面でも知名度でもMLBを代表するプレーヤーなのだとあらためて印象付けられた。

▲昨年もヤンキースの先発ローテを守りきり、球界の盟主のエースとして君臨した



常にお金より気持ちが一番の人生


 プロスポーツ選手の成功を計るものさしとして一番に使われるのは「お金」である。12月26日の広島復帰報道は、師走の日本列島に衝撃を与えた。メジャーの約21億円を断って4億円(推定)で広島に戻る。「あっぱれだ」と称賛された。ただ、毎年GM会議とウインターミーティングを取材し、選手の市場価値を調査してきた者としては、若干の注釈を加えたくなる。

 黒田がMLBで投げた7年の間に、日本球界の最高年俸がほとんど変わらないのと対照的に、メジャーは大きく跳ね上がった。07年オフ、黒田のドジャースとの最初の契約は3年3530万ドル、年平均1177万ドル。その時点で単年最高額はカブスのカルロス・ザンブラーノの1830万ドルだった。それが現時点ではドジャースのクレイトン・カーショウの年平均3070万ドル、ヤンキースの田中将大ら2000万ドルプレーヤーは珍しくない。このバブルなご時世に、ほかのFA選手のように普通にマネーゲームに応じていればもっと高い報酬を得ていたはずだ。だが黒田は常にお金より「気持ち」だった。

 そもそもドジャースとの3年契約は、4年提示を長過ぎるからと本人が縮め、その3年契約後も、複数年契約を避け単年に固執した。1000万ドル以上の額を何度も「NO」と拒否してきた経緯がある。3年前にヤンキースに移籍したときも、単年でヤンキースより300万ドル多い提示をした球団があったが、ヤンキースを選択した。

 12月10日、サンディエゴでのウインターミーティング。スティーブン・ヒリアード代理人と話した。代理人は選手のためになるべく長く大きい契約を取るのが仕事だ。それで顧客の満足を得るのだが、黒田のような選手は初めてだ、と目を丸くしたのが5年前。その後も会うたびに同じ対話の繰り返しだが、彼が偉いのは黒田の流儀を受け入れマネーゲームを押し付けなかったこと。長い契約で安心するのでなく、退路を断って1年1年勝負する独自のプロ魂に敬意を表していた。

 実際に交渉は進展していた。「このオフはヤンキースからクォリファイングオファーがなかったから、メジャーの他球団がFAで獲得してもドラフト指名権を失うことはない。成績は安定しているし、1年前より市場は明らかに広がっている」。今季40歳とはいえ、提示は過去最高の1600万ドルを上回るはずだ、と思われていた。ところが今回もお金ではなかったのである。

メジャー流を受け入れ敬意を払われる存在に


 助っ人外国人選手が日本で成功できるかどうかのカギは、必ずしも野球の技能だけではないと言われる。異なる環境にどれだけ前向きにアジャストするかだ。これは、アメリカでプレーする日本人メジャー・リーガーにも当てはまる。「自分の野球人生、好きで挑戦しているんだし、やりたいようにやる」では一方通行。どうすればチームの役に立ち首脳陣が使いやすい選手になるかを考えねばならない。言葉が通じない上に、文化や考え方も異なる世界で信頼されるにはそこが重要だ。その点で渡米後本塁打を捨てた松井秀喜と、完投を捨てた黒田は似ている。

▲メジャー流のベースボールを受け入れながらも、黒田流の野球人生を歩んでいるだけに、広島復帰の決断は驚くべきものではなかった



 思い出すのは08年6月中旬のシンシナティ。中西部の地方都市は初夏の野球日和だったが、試合開始3時間前に黒田が球場から出てきてタクシーを拾おうとしていた。元気がない。肩の具合が思わしくなく、ロサンゼルスに戻って検査を受けるのだという。伏線は6月6日のカブス戦にあった。デビューから最初の12試合、打線の援護もなく戦績は2勝5敗。苦悩する中、「壊れてもいい」と覚悟のゲームで、11奪三振、初完封を成し遂げた。

 しかし無理がたたり、続くパドレス戦は疲れが抜けず3回途中6失点KO。さらに肩に変調をきたし、検査後DLに入った。「壊れても良いと投げたら本当に壊れてしまった」と本人。精神的にも肉体的にも追い詰められたルーキーを救ったのが、クオリティスタートの考え方だった。折しも、MLBはマネーボールによる意識革命が定着しつつあった。打者なら打率より出塁率、投手も勝ち星よりローテーションを確実に守りゲームを作るのが重要と、評価基準が変わった。

 黒田は疲れをためないようブルペンでも球数を制限し、試合での調整力を磨いた。三振よりボールを動かし打たせることを心掛けた。こうして3年目以降はMLBの中でも屈指の安定感を見せる。3年目から7年目は35〜39歳という通常なら成績が下降線をたどる年齢だが、常に31試合以上先発、平均203イニング、防御率3点台、QS率も60%以上だった。

 一方で、黒田は個人タイトルに縁がなかった。オールスターゲームに出たことはなく、最多勝、防御率1位などとも無縁。月間MVPもなかった。だがタイトルを取っても、翌年不振で先発ローテを外れるようでは信頼されない。MLB7シーズン中6度30試合以上の先発を果たした。あの野茂英雄は12シーズンで6度の30試合以上、大家友和が10シーズンで2度。ほかの投手は1度っきり。安定感をものさしにすれば、黒田は間違いなくメジャーで最も成功した日本人投手なのである。

 トム・ベデューチはアメリカを代表する野球記者だ。彼が3年前に発表した「日本人投手3年限界説」は反響が大きかった。過去の例を見ても、相手打者に覚えられたりケガがあったりで、良いシーズンは3年以上続かない。だから当時の新顔ダルビッシュについても長期契約は用心した方が賢明という主旨である。しかしながら、日本人投手も着実に進化している。黒田が3年限界説を吹っ飛ばし、今年4年目のダルビッシュと岩隈もそれに続くだろう。そして今日本にいる若い世代も、先輩たちの足跡を参考にすることで、世界への挑戦をイメージしやすくなっている。そこに黒田の日本球界復帰。エリートレベルのみならず、多くの若手に刺激を与えるのではないだろうか。

 9月14日のオリオールズ戦、日米通算の投球回数で3000を越えた黒田は「大学からプロ入りしてまさかこんなに投げられるとは思わなかった」と感慨深げだった。大卒3000回越えは日本人で3人目。あの阪神村山実と違い、黒田の22歳から24歳はスロースタート。3シーズンで45試合先発、276回2/3、防御率5.37とピリッとしなかった。そこから工夫し、25〜29歳が851回、30〜34歳が882回1/3、35〜39歳が1018回1/3と右肩上がりに腕を上げた。

 日米を又にかけた18年のキャリアが雄弁に物語る。2015年、背番号15の存在は広島カープのみならず、日本球界に建設的なインパクトをもたらすだろう。

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