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カープを愛したレジェンド・山本一義

 

スイングの美しさで知られた強打者だった


 25年ぶりとなる広島東洋カープ優勝の1週間後、9月17日に弱い時代のカープを支えた左の強打者、山本一義氏が尿管ガンのため広島市内の病院で息を引き取った。78歳だった。「優勝ムードに水を差したくない」という故人の意向から公表されたのは、セ・リーグが公式戦を終えた後、10月3日となった。その話を聞いたとき、多くの関係者が「一義さんらしい」と言って涙した。カープを深く愛し、カープのために全身全霊をかけて闘った男だった。

 広島で生まれ、広島商高に入学。当初は投手だったが、腰を痛め、野手に転向した。3年生のときは四番主将として春夏連続甲子園出場。夏の広島大会では13打席中10打席敬遠されたという逸話もある。卒業前に、同じ広島商出身の鶴岡一人(当時は山本姓)南海監督から「4年間大学で野球を勉強してから、ウチに来てくれ」と言われ、鶴岡の母校である法大に進み、やはり4年時には主将となり、「絆を重視する広商の野球」(山本)で春の優勝に導いている。

 そのまま南海に進むつもりだったが、広島の後援会長だった池田勇人通産大臣(のち首相)に呼び出され、「故郷を忘れないでほしい。故郷を好きになってほしい。故郷を強くしてほしい」と言われ、広島入団を決意した。広島に帰った際、駅に山本の入団を知った大勢のファンが集まり、大声援。「この人たちは絶対に裏切れん」と思い、涙が出た。その後、鶴岡にも直接会っておわびをしたが、その際、「ワシが選手のときは広島に球団がなかった。あったらたぶん入ったと思う。故郷を頼むぞ」と言われ、また涙が出た。

 61年入団で63年からスタメン定着。チームは低迷期ではあったが、四番も打ってチームを支え続けた。巨人王貞治長嶋茂雄のようになりたいと思い、巨人・荒川博にアドバイスをもらいに行ったことも。

「長嶋さんには、最初『3割を打ってこい!』と突っぱねられた。ナニクソと思って頑張ったね。66年に3割を打って日米野球の全日本に選ばれたとき長嶋さんが笑顔で『今日からバッティングの話をしよう』と。あのときの感激は一生忘れられん」

 すべては「俺が2人のように打てたらカープは強くなる!」という思いからだった。選手時代は常に「チームのために打つ」という気持ちを持っていた。山本はそれを“広商精神”と言っていた。

 ON絡みでは、こんな話もある。巨人戦の試合中、ヤジを飛ばし続けたファンに激怒し、スタンドに駆け上がったことがあった。翌日、巨人の牧野茂コーチに呼び出され、「お前はセ・リーグを引っ張らなきゃいけない選手だろ。ふざけるな。長嶋、王を見てみろ。あいつらはいくらヤジられても笑って手を振り返すじゃないか」と叱責され、それから笑う練習をしたという。解説者時代、同じようにファンと言い合いになった新井貴浩に「子どもが見ているから、そんなことをしてはダメだ」と諭したこともある。プロの矜持を強く持ち、それを後輩たちに、つなげていこうとした人でもあった。

 バットコントロールが巧みで“変化球打ちの名人”とも言われた。最多本塁打は69年の21本で、典型的な中距離ヒッターだったが、「高校時代に腰を痛めるまではホームランバッターだった。でも、それからは当てる打撃になってしまったね。それは少し悔いがある」とも語っていた。

 ラストイヤーは75年の初優勝。「もうオレの役割は終わっただろう」と自ら決めた。同年、阪急との日本シリーズでのホームランを、「最高の思い出」と語っていた。引退後は広島(2度)、近鉄、ロッテ、南海でコーチをし、情熱的かつ理論的な指導で多くの若手打者を育て上げ、広島出身で現阪神監督・金本知憲も「打撃では一番の師匠」と敬愛する。ロッテでは82年から2年間監督も務めた。現役通算1594試合、1308安打、171本塁打、655打点、打率.270。66、69年に外野手ベストナインとなっている。
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