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栄光のナンバー“3”継承ストーリー

土井正博が語る「3」の魂 「背番号とともに教えや技術も引き継がれている」

 

「日本球界を代表する背番号といえば?」。候補は数多くあれど、「3」がその候補に拳がることは間違いない。“ミスタープロ野球”長嶋茂雄が背負ったその栄えある番号は、各球団にとって特別な意味を持つことが多い。その意味と現在地をあぶり出していこう。
取材・構成=吉見淳司、写真=BBM

土井正博 1975〜81、2449試合2452安打465本塁打1400打点、打率.282


背番号は“顔”のようなもの


 私が1961年に近鉄に入団したときの背番号は「51」でした。私は大鉄高を2年生で中退してプロの世界に飛び込みましたから、生きていくので必死。ただユニフォームを着られたらいいという感覚だったので、当初は「何番を背負いたい」という余裕は一切なかったですね。

 67年に初めて3割を打ち(.323)、その翌年から「3」を背負わせてもらったのですが、私から希望させてもらいました。「もういただいてもいいかな」という思いがあったことと、前任者の伊香輝男さんが引退される間際となっていたこともあります(伊香は67年に選手兼任コーチとなり、68年に現役引退。68年は背番号「52」)。背番号というのはそう簡単に渡せるものではありません。そこに向けて一つずつ段階を上がっていかないといけませんし、タイミングもありますからね。

 いまでこそ、イチロー(マーリンズ)などの活躍で、大きな番号を背負う主力選手も増えていますが、当時はレギュラー選手といえば野手は1ケタを背負うことが主流でした。私も若い背番号にはあこがれがありましたが、中でも「3」は特別なもの。それはやはり長嶋茂雄さんがいたからです。

 長嶋さんが巨人でデビューした58年に私は15歳。家にはテレビがなかったものですから、街頭テレビで試合を見ていました。「うわあ、すごいスイングをするな」と驚かされたものです。そのときにはまさか、プロで「3」を背負うようになるとは思ってもいませんでしたが。

 75年に太平洋(現西武)に移籍したときにも「3」を着けさせてもらいました。思い入れのある番号ですし、最後の最後まで通したいと思っていたので、「3」で引退できたのは良かったですね。

 やはり「3」を背負っていると・・・

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