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投手陣の底上げ進行中。DeNA・大家友和コーチが与える好影響

 

20年ぶりのリーグ優勝を目指して幕を開けたDeNAの今季だったが、先発の柱が相次いで離脱し、先発ローテを再編せざるをえなかった。そうした緊急事態に2年目の京山将弥をはじめ、新しい力が一軍の舞台で結果を出した。その背景には、今季から二軍投手コーチに就任した球団OBで、MLBで通算51勝を挙げた大家友和の存在があった。
取材・文=山森恵子 写真=BBM


若手育成への情熱


 横浜DeNAベイスターズ二軍投手コーチの大家友和は、1年ほど前まで現役のナックルボーラーとしてMLB復帰を目指していた。昨年春、ボルティモア・オリオールズの春季キャンプ地フロリダで、もしもどこかの球団から好きな仕事を選んでいいと言われたら何がしたいかとたずねると、彼はこう答えた。

「ファームで、若い選手を育ててみたいです」

 華のある一軍コーチではなく、二軍で若手に寄り添うことに彼は魅力を感じていた。それから半年後の秋、希望通りの職に就くと、大家は短期間で複数の選手を蘇らせ、春のマウンドに送り出した。例えば開幕から3連勝した19歳の京山将弥は、中学時代に大家が代表を務める草津リトル・シニア・パンサーズに所属していたつながりで旧知の仲だ。新たな球種の握りや考え方についてやり取りを交わした。あるいは育成投手の田村丈は150キロ台を連発する投手だ。大家は田村を単なる高い身体能力を持つ選手で終わらせたくはなかった。マウンドで窮地に陥る田村に“戦え!”とエールを送り、自分で乗り越える力を養わせようとする。

「今現在、彼らが持っている力を発揮させたいと思いました。そのために何かを加えたり、例えばそれが技術だったり、あるいは体力だったり、たとえ結果が残っても残らなくても、自分の力を発揮してくれれば、何かが見つかり、彼らのモチベーションも高く保てる。もしも彼らが何らかの苦しみを抱えているのなら、それを取り除いてあげるのが僕らの仕事だと思いました」

 彼らの“苦しみ……”。

 それは大家自身がのたうちまわった苦しみとオーバーラップする。1993年秋、ドラフト3位指名で横浜(現DeNA)入りした大家は、1年目の春、高卒ルーキー4月初勝利という24年ぶりの記録を打ち立て、一躍脚光を浴びた。しかしこの試合、8回途中に彼が投げ込んだ球はたったの3球。それで手にした1勝が呪縛のようにつきまとい、結局、アメリカに渡るまでの最初の5年間で彼は1勝しかできなかった。

「選手を苦しませる内容によっては、(本来の)力を発揮できないですから、発揮するための取り組みが必要です。取り組むための準備をすることで、結果が出れば自信につながり、たとえ結果が出なくても経験になる。成功してもしなくてもきっと積み上げていける。僕はベイスターズですぐに一軍で、よくも悪くも運が良かった。でもあのころの僕は何も積み上げてはいなかったんです。あんなもんじゃダメって分かっていても、何がダメなんだか分からなかった。なぜいいボールを投げられないのか、そこまで説明してはもらえなかった。よくしてもらったことは覚えています。でもあの5年間、最後までその答えに出会うことはなかったんです」

1年目の94年4月、「3球」で挙げた初勝利が大家[写真左、右は捕手・谷繁]を苦しめることになる


生まれ変わった国吉


 98年秋、横浜が38年ぶりの優勝に沸くころ、大家は横浜を退団し、翌春22歳でアメリカに渡った。MLB挑戦1年目の99年夏、ボストン・レッドソックスでメジャー・デビューを果たした。

 2010年、12年振りに日本球界に戻ったときの印象を、当時ルーキーだった国吉佑樹はこう記憶している。大家が“メジャー51勝逆輸入右腕”と呼ばれた時だ。

「外国人ピッチャーが日本に来て、球を動かし、打ち損じてゴロをとる、そんなイメージでした」

 昨年の秋、二軍投手コーチとして国吉と再会した大家は、ただちに国吉の新たなピッチング・スタイルの模索に取り組んで・・・

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