週刊ベースボールONLINE

惜別球人2013

インタビュー・小池正晃 よきライバルだった松坂世代の仲間

 



「松坂世代」の一員として1999年にプロ入りした小池正晃。代打や守備固めが主な活躍の場で、なかなか定位置獲得はならなかった。だが2011年日本シリーズの本塁打など、勝負強さには光るものがあった。そして今年「引退試合での2本塁打」という大きな花火を最後に打ち上げ、小池は第二の野球人生へと歩を進めはじめている。

取材・構成=佐野知香 写真=大泉謙也、中島奈津子、BBM

※記事の最後に小池正晃氏の直筆メッセージ入りサイン色紙応募についてお知らせがございます

引退を決意させた先輩、同級生の言葉

──10月1日に球団から引退の正式発表がありましたが、引退を決意したのはいつごろでしたか。

小池 今年は開幕からずっと二軍で、8月ごろにはクビになるのではという思いがありました。ただ、そのころはクビになったとしても、違うチームのユニフォームを着てプロで野球を続けたいという気持ちがあったんです。でも、8月末に一軍に上がったんですけど、そこで思うような結果を出せず二軍に戻ってきたときに「これ以上はどうかな」と。野球を続けたいという気持ちのほかに、このままDeNAでやめた方が自分にとっていいかもしれないという気持ちが強くなり、9月の終わりごろには家族に相談しましたね。

――選手などに相談はしましたか。

小池 多村(仁志)さんと後藤(武敏)には相談をしました。僕の中ではもう気持ちは決まっていたんですけど、話を聞いてもらって、それについて2人は何て言うかなと思ったので。2人は、やめることには「さみしいし、続けてもらいたい」と言っていましたけど、客観的に見て僕がほかのチームに行って一軍でどれくらいやれるかという判断をしてもらったら、それに関しては「難しいんじゃないか」と。

普通の仲の良い人だったら「まだできるよ」という言葉をかけてくれると思うんですけど、そこは本当に長い付き合いの2人だったので正直な気持ちとして言ってくれて、逆にうれしかったですね。それで決意が固まり、球団に引退を申し出ました。

▲春夏甲子園、国体、神宮と4大会を制覇した1998年の横浜高。松坂、後藤らとともに、小池(中段右から2人目)も外野手のレギュラーとして勝利に貢献した



──今季最終戦の10月8日の阪神戦(横浜)で「七番・一塁」でスタメン出場し2本塁打を放ちました。周囲から「まだできる」という声が上がったと思いますが、ご自身もそういう思いは浮かびませんでしたか。

小池 まだやれたんじゃないかという感覚はまったくないですね。まあ、1本目を打ったときには「あれ、まだできるかも」という気持ちもちょっと浮かびましたけど、2本目を打ったときには逆にすっきりしちゃったので、「ああ、良かったな、これで終われて」という気持ちでしたね。

▲チーム最終戦となる10月8日の阪神戦(横浜)に「七番・一塁」でスタメン出場。5回に2ラン、8回にもソロと4打数3安打3打点の大活躍



――その試合では後藤選手が小池さんよりも泣いていました。

小池 そうですね(笑)。横浜高時代に一番厳しい練習をしていた仲間でお互いがお互いを認め合っていましたし、何か感極まるものがあったんじゃないですかね。

――後藤選手とはこれまで違うリーグでしたが、最後の2年間は同じチームでプレーできましたね。

小池 それはすごく良かったですね。2011年オフにFAでDeNAに移籍が決まったときは、先に後藤がトレードで入団が決まっていたので、また一緒にできるなという思いもありました。一緒にプレーするだけでなく、いろいろな野球の話もしましたし、すごく楽しかったですね…

この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。

まずは体験!登録後7日間無料

登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。

惜別球人

惜別球人

惜しまれながらユニフォームを脱いだ選手へのインタビュー。入団から引退までの軌跡をたどる。

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング