週刊ベースボールONLINE

惜別球人2013

インタビュー・薮田安彦 見つけた居場所

 


救援への転向に、初めは悔しさがあったという。だが、それこそが自分が求めていた転機だった。屈指のパワーピッチで打者を牛耳った剛腕リリーバーが、18年間に及んだ自身のプロ野球人生を振り返る。

取材・構成=吉見淳司 写真=大泉謙也、BBM

※本文の最後に薮田安彦氏の直筆メッセージ入りサイン色紙、直筆サイン入りカード応募についてお知らせがございます

引退式でのサプライズ

▲引退セレモニーでは右肩痛を押し、予定を上回る3球を投じた



──昨年10月6日の本拠地最終戦(対オリックス)で引退セレモニーを行いましたが、初めはサブロー選手と1球勝負だった予定が、3球投げて三振を奪いました。

薮田 実際、右肩がかなり痛かったので、本当は球団の方に「投げたくない」とは言っていたんですけど(笑)。(同日に引退した)小野晋吾も投げるので、1球だけ。ラストピッチのはずだったのですが。

――いつ、予定が変わったのでしょうか。

薮田 初球を投げてもサブが帰らなかったので(笑)。僕としては1球投げて「あぁ、終わったな」という感じだったんです。事前に「1球で打って終わってくれ」と言っていたんですけど。

──球速は100キロ前後。痛みが伝わってくるような投球でした。

薮田 投げるのはどうなんだろうと。その姿をファンの前で見せていいのかな、と自分の中では思っていましたね。

――肩の痛みは、12年のオールスター前から続いていました。

薮田 今思えばですけど、12年の春のキャンプで右ふくらはぎの肉離れをしてしまって、知らず知らずのうちにかばって投げてしまっていたのかな。オープン戦に入っても抑えられてはいたのですが、下半身が使えずしっくりこないままでした。

――その年の10月6日の西武戦(西武ドーム)では、4つの四球を与え、押し出しサヨナラ負けという試合もありました。

薮田 正直、そのときにはもう、右肩は本当に痛かった。これまで4つフォアボールなんて経験したことがなかったのですが、それほど状態が悪かったですね。12年のシーズンが終わってからは、いつもどおりのトレーニングをするために病院で痛み止めを打ったり、治療をしながら13年を迎えました。

――手術をする選択肢はなかった。

薮田 年齢もありますし、手術することで1年間ほとんどリハビリに時間を費やさないといけないとなった場合に、果たして球団が待ってくれるかということがありました。手術をしないで投げられる方向を探したときに、この方法が一番だと思ってやっていたんですけど、思いのほかまったく良くならなかったですね。

──実際に引退を決意された時期というのは。

薮田 痛み止めの注射を打ちながら7月にはブルペンにも入ったんですけど、投げ終わって張ってきて、すぐにまた痛みが出てきて止めました。そこからずっと投げられない状態が続いて、8月ごろには「もしかしたら……もしかするかな。この状態じゃちょっと厳しいかな」と。そして9月前半ごろに、球団には意思を伝えました。

──そんな状態で臨んだ引退セレモニー。現役最後の“薮田コール”を浴びた際の思いは。

薮田 ありがたかったですね。あのコールで助けられたことが多かったし、最後の場で、QVCマリンでそれを聞けたことに本当に感謝しています。

04年のターニングポイント

──プロ入り当初のことを思い返してください。1年目は初完封勝利を挙げ、2年目には規定投球回に到達。先発として手応えを感じていた時期だったのでは。

薮田 そうですね。入って来るときも、社会人で先発していましたし、「プロでも先発をする」という思いでしたので・・・

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惜しまれながらユニフォームを脱いだ選手へのインタビュー。入団から引退までの軌跡をたどる。

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