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いわゆる松坂世代の一員である赤田将吾。プロ入りは松坂大輔と同時で1999年、ドラフト1位が松坂、2位が赤田だった。苦労を重ねながら、チームでポジションを築いていった赤田。リーダーシップも兼ね備えていたが、2010年オリックスへ。さらに日本ハムのユニフォームを着たが、他球団を経験したことは自身にとってプラスになった。16年間のプロ野球人生、その挑戦の日々を語る。
取材=上岡真里江 写真=BBM



再び西武へという気持ちはあった


――現役生活お疲れ様でした。選手生活を終え、今の率直なお気持ちは?

赤田 終わりは突然来たなと(笑)。今年、シーズン途中はずっと一軍に上がれなかったので、そういうの(戦力外)もあるかなとは思っていました。でも、9月から一軍に上がり、クライマックスシリーズはスタメンでも出られていたので、なんとか粘れるかなと思ったのですが、突然。本当に「あっさり」と訪れましたね。

――日本ハムから退団が発表された時点では、「現役続行」と伝えられていました。

赤田 今言ったとおり、9月前に一瞬、戦力外が頭をよぎったことがありましたが、その後「大丈夫かな」と思っていた分、さすがに言われたときは心が刺されました。本当に、何も考えられなかったので、その瞬間は「まだ現役で」を第一に思いました。

――それが、数日後には引退、そして西武の二軍コーチ就任。決意急転の真相をぜひお聞かせください。

赤田 西武も来季コーチ人事をすでに発表していたにもかかわらず、僕が戦力外になったその日に、『育成コーチ』という枠を作って、声をかけていただきました。それは非常にありがたかったです。ただ、本当に“その日”だったので、さすがに僕も「選手で」という思いもあり、即答はできなかったです。そこから3日間、とにかく考えました。仮に、現役で、他チームであと2〜3年できたとしても、その後、コーチとして声がかかるかは、また別の話。後々はコーチなどをやってみたいという気持ちはあったので、これもタイミングなのかなと。

――その3日間で、誰かに相談はなさったのですか?

赤田 結構しました。坪井(智哉)さん、田口(壮)さんなどから話を聞きました。坪井さんは、あそこまで現役にこだわっていたので、「自分が悔いのないように、やれると思ったらとことんやれ」と言っていました。田口さんからは、「現役にこだわるのもいいけど、自分は辞めて、今、解説になっているけど、その後にまた現場復帰するのって、結構大変やぞ」と言われ、田口さんでもそうなのかと。正直、コーチは1回ユニフォームを脱いでからでもいいかな、とも思っていたので、ユニフォームがそのまま着られるうちは、そういう選択もありなのかなと考える、良い機会になりました。それに、戦力外になったその日に声をかけてもらったし、古巣の西武だったというのも、決断の理由としては大きかったですね。

――このタイミングでなくても「いずれは西武で」の思いは、もともとお持ちでしたか?

赤田 コーチという立場は別として、その思いはありました。もちろん、一番は選手として帰って来られたらよかったのですが、「選手は、もういい」と言われてしまったので(笑)。

――ということは、一応、打診はしたと?(笑)

赤田 はい! でも・・・

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