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ときにはワンポイント、ときには1イニング通じてと、さまざまな起用法に応えて結果を残し、中日黄金時代に欠かせない救援として活躍した小林正人。危険球退場デビューにサイドスロー転向と、試行錯誤を凝らし続けた12年間を振り返ってもらった。
取材・構成=吉見淳司 写真=荒川ユウジ、BBM

中日・小林正人広報のツイッター初投稿



自分らしい最終登板


――12年間の現役生活お疲れ様でした。

小林 今も毎日球場にいますし、グラウンドにもいるので生活がまったく変わったわけではありません。ただ、野球をしなくなっただけという感覚ですね。

――引退を決断された経緯は。

小林 9月頭に(落合博満)GMに呼ばれて、「ウチとしては来年の構想外で、契約は結ばない」と伝えられました。ただ、「球団としては広報という仕事をしてほしいと思っている。引退する場合は本拠地最終戦での登板も用意する」とも言ってもらいました。選択肢としては他球団への移籍を目指してトライアウトを受けるのか、引退して最後に投げさせてもらい、球団に残るのか、という2つ。家族やお世話になった方にも相談し、引退を決断しました。

――ファームでは29試合に登板。現役続行の意思も強かったのでは。

小林 もう少し抑えられていたら、という気持ちはありました。試合数も多く、内容も悪くはなかったですけど、来年に契約してもらえるかというのは二軍にいれば常に思うことですし、「今年は戦力外もあるかな」とは感じていました。もちろんまだまだ続けたい気持ちはありましたけど、現実に直面し、やっぱり中日が好きですし、名古屋の土地も好きだったので、この決断に至りました。

――球団に尽くしたい気持ちも強かった。

小林 お世話になったという思いが強かったので、恩返しというか、力にはなりたかったですね。

――引退登板となった10月1日のDeNA戦(ナゴヤドーム)ではホールドをマークしました。

小林 先発した大野(雄大)の2ケタ勝利もかかっていましたし、DeNAとは4、5位を争っていた時期でした。自分の引退を100%は考えられなかったですね。直前に投げた鈴木(義広、同じくこの試合で引退)がホームランを打たれて3対2と1点差となった場面での登板でした。僕の対戦打者は相手先発のモスコーソ投手だったんですけど、記録を見たらホームランを1本打っているし、前の打席をブルペンで見ていたときにいい当たり(中飛)をしていたのは何となく覚えていたので、「これはちょっと……どうなのかな」と思いながら投げました(笑)。

――自分のラスト登板をかみ締めることはできなかった。

小林 追い込むまでは「打たれたら」というプレッシャーはありましたが、最後の1球は感慨深かったですね(結果は見逃し三振)。でも、「これで最後だ」といういつもとは違う精神状態だったので、登板するときのファンからの歓声はとてもよく聞こえました。

――もっと点差があればさらに楽しめたかもしれないですね。

小林 そうですね、というのはアレですが(笑)。緊張感があったし、僕らのポジションはああいうところで投げてナンボ。最後まで緊張感を味わいながら投げられて良かったと思います。

▲最後のマウンドとなった10月1日のDeNA戦[ナゴヤドーム]では、打者1人を抑えてホールドをマーク



衝撃のデビュー


――入団時にこれほど長く続けられるとは思っていましたか。

小林 いや、まったく思っていなかったですね。ウチは山本昌さんや岩瀬(仁紀)さんなど、長く活躍している選手も多いので、「もう少しできたんじゃないか」と言ってくれる人もいるのですが、自分としてはまさか、という思いです。プロ1年目の自分を今、客観視したときに、このような形で長くプレーできるとは思わないですね。

―― 一軍デビューはプロ3年目、05年9月1日の阪神戦(甲子園)でした。

小林 いきなり桧山(進次郎)さんへの頭部死球で危険球退場でした。しかも優勝を争っていた阪神との天王山。さらにその日は、長女の誕生日だったんですよ。だから余計に印象深いですね。

――当時の心境としては。

小林 ぶつけておいて申し訳ないのですが、当ててしまったショックより、一軍で投げられた喜びの方が大きかったですね。もちろん、当時は落ち込んだりもしていたと思うんですが、やはり入団3年目の9月ですから。もう後がない状況で一つでもステップを上がれた喜びが大きかった印象です。1年目は右も左も分からずとにかく一生懸命やっていたのですが、2年目は結果も内容も悪く、苦しい時期でしたね。

――05年オフのサイドスロー転向が大きな転機となりました。

小林 現ヘッドコーチの森(繁和、当時投手)コーチから提案され、迷わなかったですね。「上投げだと高橋聡文などがいて、オーソドックスなタイプだと厳しいから、一軍に定着するためにサイドにしよう」と声をかけていただいたんです。一軍で投げるために練習を積んでいるわけですからね。当時はネットもそれほど発達していなかったので、森コーチがテレビ局の方に掛け合って永射保さん(元西武ほか)の投球する姿を編集したものを作ってくださって、それを家で毎日のように見ていました。

――一口に“転向”というほど簡単ではなかった。

小林 そうですね。でも、今思うと、サイドになってからプロとして考えられるようになったと思います。それまでは「今の自分より速い球が投げたい」「コントロールが良くなりたい」という思いがすごく強かったんですけど、サイドで対左ということを考えたときに「結果がすべて」と思うようになりました。打者に腰を引かせればど真ん中も外角になりますし、クイックで投げようが、何をしようが、まずはどうやって打ち取るかを考えるようになったんです。

――自分のボール以外のことも考えるようになった。

小林 自己満足になってしまいますからね。もちろん能力を高めることは必要ですが、相手をいかに抑えるかを考え出すようになりましたね。プロの世界では結果がすべて。120キロくらいの球速でもずっと抑えられていればいいわけですからね。技術的な部分でも、打ちづらいボールを投げることを考えるようになりました。

――その成果が実り、3度のリーグ優勝と1度の日本一を経験しました。

小林 そういう時期に投げさせてもらえて本当にありがたいなと思いますね。優勝旅行にも行かせていただきましたし(笑)。毎年のように優勝争いをしている中で投げさせてもらったというのは、今思うと恐ろしいことでもあるんですけどね。すごく幸せです。

――自分がそれに貢献したという思いは。

小林 06年だと岡本(真或)さん、平井(正史、現オリックスコーチ)さんがいて、浅尾(拓也)もいましたからね。がっちり貢献したというわけではないですけど、一つのピースにはなれたかな、と思います。

――11年には58試合で5勝0敗18ホールド、防御率0.87という好成績でした。

小林 振り返ってみれば最高のシーズンになりましたが、開幕は二軍スタートで、1試合終わってソトが肩を痛めて一軍に昇格という状況でした。キャンプ中から調子がいいわけではなくて、3月くらいまで試行錯誤していましたから。

――なかなか順調にはいかなかった。

小林 今年もそうだったんですけど、すんなり開幕できたときはあまり結果が良くないんですよね。良かったシーズンを振り返ると、「大丈夫かな」という不安があって、いろいろと試しながら解決策を見つけてなんとかいけたということが多かったですね。

▲最終登板の後には引退セレモニーも行われ、チームメートから胴上げされた



第二の人生も中日で


――小林さんと言えば、巨人阿部慎之助選手キラーとして名を馳は せました。抑えるためのポイントがあったのでしょうか。

小林 特にないんですけど、昨年に3打数3安打だったということを踏まえれば、余計なことを考えずに一生懸命に対戦した結果が、たまたまそういう成績になったのではないかと。12年のCSくらいから阿部さんとの対戦成績がクローズアップされ出して、そのシーズンの24打数1安打という対戦成績の数字がポンと浮かび上がってきました。そうするとどうしても意識してしまうんですよね。余計な力も加わってしまいますし、自分でも優位に立った気がしてしまい、大胆に行ってしまうんですよね。

――それまでとは違う意識になってしまった。

小林 初球を甘く入って打たれてしまったり、追い込んでからもボールでいいところでストライクを投げてしまったり。本当に意識の差だったと思いますね。

――12年10月20日のCSファイナルステージ第4戦(東京ドーム)、中日の3勝1敗で迎えていた試合で、1対2の8回に阿部選手にタイムリーを浴びました。

小林 バットの先端に当たったボールがサードの頭を越えてレフト前安打になったんです。それほど気にはしていなかったんですけど、翌日にも対戦し、結果的にはセンターフライでしたが、左中間にすごい当たりを打たれたんです。そのときに「あれ?」と思いましたね(笑)。昨年に打たれた2本目の安打も、バットの先端に当たった打球が三塁線にバントのように転がりファウルになりそうだったんですが、雨が降っていたために切れずにヒットになって……。阿部さん優位の流れになっているな、と思いましたね。

――左のワンポイントという役割は、救援の中でも抑えて当然というイメージが強い役割です。

小林 打たれる分にはまだいいんですけどね。自分としてはフォアボールを出してしまうのが一番嫌でした。仕事をできなかったという気持ちが強くて、「何しに出てきた」とヤジられますけど、自分でもそう思いますから。

――精神的な負担も大きかったのでは。

小林 一軍に定着してからは自分の中で慣れてきたというか、それが普通になってきましたね。1日に何度も肩を作ったり、ブルペンで投げながら結局出番がなくても、ストレスにはならなくなりました。かなりタフになれたと思いますね。

――自分の野球人生には満足している。

小林 もう大満足ですね。後悔はないな、と思いますし、あのときこうしておけば、という思いもありません。逆に、そのときこれをしておいて良かったなという経験が積み重なってここまで来れたという気持ちです。

――すでに中日の広報としての生活が始まっていますが、どのような仕事内容なのでしょうか。

小林 取材依頼を取り仕切ったりして、球団とマスコミのかけ橋となる仕事でもありますし、ファンと球団を結ぶ役割でもあります。自分なりにはすごく楽しくやっていますし、デニーさん(友利結コーチ)にも「お前、本当に野球選手だったのか」というくらい、板についているとも言われるので、一生懸命にやっていきたいですね。

――ファンにメッセージをお願いします。

小林 今まで応援ありがとうございました。これからも中日ドラゴンズを陰から支えていきますので、球団をよろしくお願いいたします。




わが忘れじのワンシーン〜2011.11.20@ヤフードーム 日本シリーズ第7戦 VS.ソフトバンク〜


足がすくんだ大舞台



 あまり抑えたことって強く記憶には残っていないんですよね。2011年に開幕から16試合連続無安打(1四球)を続け、27個のアウトを奪ったことは覚えていますが(笑)。

 その年の日本シリーズ第7戦では0対0の3回無死満塁から登板。少し足も震えていましたし、平常心では臨めなかったですね。もし走者一掃を打たれてしまったら試合が決まってしまうし、三振も欲しいし……といろいろなことを考えていましたね。

 結果的には押し出し四球という悔しい結果に終わってしまいました。でも、日本シリーズに登板できる投手の方が少ないですから。いい思い出になっています。

PROFILE
こばやし・まさと●1980年8月21日生まれ。群馬県出身。181cm86kg。左投左打。桐生第一高から東海大を経て、03年ドラフト6位で中日に入団。3年目の05年に一軍出場を果たすと、同オフにサイドスローに転向し、翌年から救援の一角に定着。06年、11年の日本シリーズにも登板した。14年シーズン限りで現役を引退し、中日球団広報となった。
惜別球人

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惜しまれながらユニフォームを脱いだ選手へのインタビュー。入団から引退までの軌跡をたどる。

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