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惜別球人2014

藤井秀悟 引退惜別インタビュー「4球団を渡り歩いて友達が増えた」

 

2年目の01年に最多勝となる14勝を挙げ、球界を代表する投手に躍り出た左腕。特に巨人戦には強く、“巨人キラー”の異名を取った。08年に日本ハム移籍以降、巨人、DeNAと渡り歩いた15年間のプロ野球人生。「悔いは残る」が、今は純粋にチームの力になりたいと言う。今季からは、裏方として球界を盛り上げていく。
取材=中里浩章 構成=高橋透 写真=BBM



大きかった名捕手・古田の存在


――まずは15年間お疲れさまでした。現役時代を振り返ると、藤井さんにとって一番の思い出は何ですか。

藤井 やはり、プロ2年目の2001年にリーグ優勝して日本一になったことですかね。ちょうど自分も活躍できた中での優勝だったので、輪の中に入れてよかったなと思ったし、本当にうれしかったです。チームとしては特に打線がすごくて、外国人選手もペタジーニラミレスがいて、何度も助けてもらいました。

――その年は14勝を挙げて最多勝のタイトルを獲得し、ベストナインにも選ばれていますね。

藤井 実は1年目がずっとリリーフで(31試合に登板)、首脳陣からは「今年もリリーフで行くぞ」と言われていたんです。でも、「いつか先発がやりたい」という思いは常に持ち続けていました。そんな中、オープン戦でたまたま先発候補の方々が崩れて、僕に先発の機会を与えていただいた。そのチャンスを全力で抑えて、次も抑えて……というのを繰り返していくうちに先発に定着した感じですね。

――突然の抜てきですから当然、気合いも入ったと思います。初先発の心境は?

藤井 それが、実はあまりよく覚えていないんです(笑)。ただ、先発だからといって特別に何か対策などを考えることはなかったように思います。1年目は「とにかく打者一人ひとりを全力で抑えよう」と心掛けていて、「これをずっと継続していくのが先発なんだな」と思っていました。また捕手が古田(敦也)さんでしたから、僕自身の調子や手応えがどうこうと言うよりも「古田さんのサインどおりに、構えたところに投げれば大丈夫だ」と。それだけを考えていたので正直、自分で投球の組み立てをいろいろ考えたりすることは、あまりなかったんですよね。

――藤井さんにとって、古田さんの存在というのはやはり大きかったですか。

藤井 そうですね。もちろんほかの方々にも助けてもらったんですけど、僕はただ投げることで精いっぱいでしたから、とにかく古田さんのおかげで優勝できたし、最多勝も取らせてもらえたんじゃないかという思いが強いです。あの当時は知識を増やそうとか、投球の幅を広げようという感覚がなかったので、今となっては「もっといろいろ聞いて勉強しておけばよかったなあ」とも思いますね。それとプロに入ってすぐ、古田さんに「プロで投げ続けるならもっと球種を覚えた方がいい」とアドバイスされたことも大きかったです。僕は直球とカーブを主体にしていたんですが、ストライクを取れる球種をあと2つくらいは増やした方がいい、と。いずれ先発をするための準備としても大事だと思いましたし、1年目からチェンジアップとスライダーに取り組みました。それで2年目にようやく思いどおりに扱えるようになってきて、投球の幅が自然と広がっていったんです。

――当時の投球を振り返ると、どんな印象ですか。

藤井 まだまだコントロールが粗削りでしたね。もっとコンスタントにいい球を投げることが課題。まあ怖いもの知らずでどんどんストライクを取りにいっていたし、それでも対応できる球を投げられていたので、マウンドが楽しかったです。特に巨人は強力打線で、対戦が楽しみでした。

――実際に01年は巨人から5勝を挙げて、巨人キラーぶりを発揮しました。

藤井 ホームラン打者と言われる選手ばかりがそろっていたし、抑えるのは本当に大変でした。特別に強く意識していたわけではないですけど、打たれたら悔しくて「もっと練習しよう」という気にもなったし、思い出には残っていますね。

▲キャリアハイとなる14勝を挙げ、最多勝、最優秀投手、ベストナインなどのタイトルを獲得した01年。特に巨人戦にはめっぽう強く、年間5勝。リーグ優勝に大きく貢献した



――特に印象に残っている選手などはいますか。

藤井 すごいなと感じる選手は15年間の中でたくさんいましたけど、やはり・・・

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惜しまれながらユニフォームを脱いだ選手へのインタビュー。入団から引退までの軌跡をたどる。

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