週刊ベースボールONLINE

惜別球人2015
引退の谷佳知に聞く 「いずれは指導者として帰ってきたい」

 

引退試合が彼のプロ野球人生を物語っていた。右前打を放つと、ナインがつないでホームに生還。大歓声が背番号10を迎え入れた。引退試合当日、チームメートが口々に語った「谷さんのために」――。身長173センチの小さな体でプロの世界で戦うため、自身のスタイルを確立し、信念を曲げることなく走り続けた19年。オリックス巨人に加え、日の丸を背負って世界舞台でも戦った谷佳知が、自身の口で現役生活の軌跡を辿る。
取材・構成=鶴田成秀、写真=会田忠之、BBM



重圧を力に変えるも日の丸だけは別モノ


 笑顔を絶やさず、じっくりと、そしてゆっくり話し始めた谷佳知。それでも時折、真剣な表情で熱く語る姿は真摯に野球と向き合ってきたことを物語る。19年にわたってプロの舞台で戦い、巨人時代には5度のリーグ優勝、2度の日本一を経験。日本代表にも名を連ね、五輪にも出場した。幾度も重圧のかかる場面で結果を求められてきたが、聞けばその緊張感を「楽しんでいた」という。

――10月3日に引退試合が行われ、1カ月が経ちました。「引退した」という実感はありますか?

谷 それが「ホンマに引退したんかな〜」という感じで、実感がそこまでないんですよね。毎年、シーズンが終わったら1カ月くらい野球をやらないので、今も休養期間という感じ。引退した実感がないんですよね。

――バットを振りたい、ボールを投げたいと思うことは?

谷 全然ないです(笑)。シーズン中は夜中に「あの打席はこうやったな」と思い返して「バットの出し方を変えれば、打てたんじゃないか」と考えて、「次はこう打ったろ」と素振りをしたりしていたんですけど。今は野球のことを考えていないので、少しホッとしています(笑)。

――では、昨日(取材日は10月30日)まで日本シリーズが行われていましたが、見ていないですか?

谷 いや、見てましたよ。昨日(第5戦)は見られなかったんですけど、山田(哲人・ヤクルト)が3本ホームランを打った試合(第3戦)は見ていました。

――やはり気になる。

谷 そうですね。なんか懐かしいなあ〜って感じで見ていました。巨人時代に日本一とか経験させてもらいましたけど、緊張感は相当なモノでした。そういう雰囲気の中で彼らはやっているんだなと。一球の大切さとか、一打席の大事さとか。そういう緊張感が伝わってきましたね。

――独特の緊張感がある。

谷 日本シリーズに限ったことではないですけど、やっぱり緊張感は付きモノ。でも、僕はその緊張感がすごく楽しかったんですよ。緊張しないと打てなかったですし。緊張感を楽しめたから、ここまでできたのかなと。

――緊張を自覚して楽しんでいた。

谷 自覚していましたよ。足が震えますし、ドキドキして鼓動が早くなりますし。そういう状況で打席に立つと、良い結果が多いんですよ。だから自分を奮い立たせてくれるというか。緊張すると集中力が増すんです。普段の試合も緊張感を持ってやっているんですけど、日本シリーズなどの大舞台だと、より集中できるというか。自分の技術以上のモノが出たりするんですよね。常に緊張して打席に入った方が、もっと打てるんじゃないかと思ってやっていましたね。

――緊張を楽しめたのは、いつからですか?

谷 プロに入る前からずっとです。子どものころから。チャンスで回ってきたり、ここで打ったら勝てるケースとか。そういう場面で打ってきたので、自信があったのかもしれないですね。だから楽しめた。緊張して打席に立つと、持っている力以上のモノが出ると感じていたので。

――現役生活で楽しめなかった緊張はありますか?

谷 う〜ん、オリンピックですかね。

――アマチュア時代の1996年のアトランタ五輪、プロでも04年のアテネ五輪に出場していますが、どちらとも?

谷 金メダルを目指すという意味では、どちらも同じでしたけど、少し感覚は違いましたね。アトランタのときはメダルを獲らないと日本に帰れないというプレシャー。アテネは金メダルを獲ることに加えて、全勝というプレッシャーがありました。しかも、長嶋ジャパンで世間の注目度も高かったですから。だから、プロとして参加したアテネのときは、結果と内容を期待されました。アテネの方が、緊張というかプレッシャーが大きかったですかね。ボールも捕れないし、打つのも簡単じゃなかったですよ。

04年のアテネ五輪は主に六番・左翼で出場し、銅メダル獲得に貢献した



――国を背負った緊張は別モノ?

谷 日本中、世界中が注目しているんで。アテネは、まだ人気がなかったのかもしれないですけど日本国民は見てくれていたと思うので、恥をかくわけにはいかなかったですから。

――アテネ五輪は初めてオールプロで挑んだ国際大会でした。他球団の選手から受けた刺激もあったのでは。

谷 いや、当時は自分もオリックスで良い成績を残してトップレベルでやらせてもらっていたので、自信を持ってやっていました。だから、ほかの選手にも負けるわけがないと思っていたので、刺激を受けたことはないですね。そういうトップ選手が集まったチームだったから、負けるわけにはいかないというプレッシャーがあったんです。

1年目の経験が大きな財産に


 巧みなバットコントロールで広角に打ち分ける打撃と俊足を武器に入団1年目から外野の一角に。スター街道をひた走ってきたかのように思えるが、挫折とプロの“衝撃”からのスタートだった。しかし、その経験があったからこそ、第一線でプレーし続けられた。

類まれなバットコントロールで03年に最多安打のタイトルを獲得。球界を代表する中距離打者に成長した



――「ほかの選手に負けるわけがない」。そんな強い思いが打ち砕かれたことはありましたか?

谷 挫折という意味では1年目ですね。アマチュアからプロになって、ピッチャーのレベルの高さを痛感しました。とにかくボールのキレが違う。国際大会も出ていたので、ボールが速い人はナンボでも見ていたんですけど。プロはボールのキレが違いました。真っすぐだとノビ、変化球なら曲がり幅がケタ違い。それは、アマでは感じられなかった。これを打つの?という感じでしたね。

――アマとプロの壁に苦しんだ。

谷 でも入団当時、中西太さんがヘッドコーチ、新井(宏昌)さんが打撃コーチをやられていて。「自分の打ち方で行け」「変える必要はない」と言っていただけたんです。それが、とても大きかったですし、今でも心に残っていますね。

――勇気をもらえた一言だった。

谷 そうなんです。自分のスタイルで行けばいいんだ。プロだからって変える必要はないんだ、と思えました。フォームとかは「自然と変わる」と言われたんです。そういうものは、自分で感じながら変えていけばいいと。それは絶対守ろうと思っていました。何かを感じたときに自分で考えればいいんだと。だから夜中に素振りをしたりしていたんです。

――「自分のスタイル」とは、やはり巧みに広角へ打ち分ける打撃?

谷 そうですね。僕は野手の間を抜く打者でしたから。長距離砲ではない。とにかく野手の間を抜くことを心がけていました。もっと言うと、センター返しなのか、レフトに引っ張るのか、流してライト方向に打つのか、そういうことを考えて打たないといけないと思っていました。それが自分のスタイル。右中間、左中間に飛べば、自分の打撃ができていると思っていました。調子が上がっているなと思ったときは、右中間、左中間に打球が常に飛ぶんですよ。

――そのスタイルを確立したきっかけは何だったのでしょう?

谷 1年目のキャンプで、先輩たちの打撃練習を見たときですかね。打球の飛距離が自分と全然違った。そんな中で自分がやっていけるのかという不安もあったんですけど、ホームランバッターではないというのは分かっていたので、だったら野手の間を抜いていくしかない。そういう打撃じゃないとプロで生きていけないと感じたんです。

――そのスタイルが01年のシーズン最多52二塁打の記録を作った。

谷 そう思いますね。やっぱり長打狙いではダメ。自分は単打か、中距離。右方向を狙い打ってランナーを進める選手でもなかったですし、バントで送るような選手でもなかった。とにかく野手の間を抜く打撃が自分のスタイルだと思っていました。

――一方で、01年から4年連続でゴールデングラブ賞を受賞。右翼・イチロー選手、左翼・田口(壮)さんと形成した鉄壁の外野守備は球界随一と言われました。

谷 外野守備は二人から得た経験がすごい財産になったんだと思います。二人の外野手は飛び抜けていました。打球に対する寄りもとにかく速くて。本来はセンターの僕が中心となって捕りにいかないといけない打球なのに、もう二人が捕りにきているんです。声をかける間も遅くなりがちで、とにかく難しかった。自分が捕らないといけないのに譲ったり。反省すること、勉強になることが多かったですね。

――勉強になったこととは?

谷 とくに守備位置ですね。こんなに守備位置って1球ごとに変えるの?って思いましたもん。1球ごと打者ごとに変わるし。そこが、本当にプロの世界はち密だなと感じさせられましたね。

――試合展開に相手打者の特徴、投手の配球などで位置が変わってくる。

谷 そうなんです。その中でベンチの指示もありますし、野手の勘もある。それで変えていかないといけない。右打者で外角だったら、右中間寄りに、内角だったら左中間寄りに。そういう判断ですね。外野手は簡単だなと思われがちですけど、プロの世界は本当に大変だなと感じました。覚えることがメチャメチャありましたから。本当にやっていけるか不安しかなかったですもん。

――叱咤されたことも?

谷 もう、しょっちゅうですよ。(当時監督の)仰木(彬)さんに、かなり怒られましたよ(笑)。監督室に呼ばれて「お前、そこ座れ!」と言われたりして(笑)。守備は本当に苦労しましたね。打撃は(中西)太さんと新井さんは、本当に何も言わなかったし、打席に向かうときによく声を常にかけてくれたでの、すごく打席に入りやすかったんですよ。「三振しても良いから、3球振ってこい」と。だから、気楽に打席に入れましたね。

――プロ初安打は二塁打と、プロ野球人生のスタートは“らしい”安打でした。その後、ホームスチールを成功させるという衝撃のデビューでしたね。

谷 そうなんですよね。こんな野球人生あるんかって自分で思いますもん(笑)。ホームスチールなんて、まずやらないし、決まらないじゃないですか。それを1年目でやったことは、振り返ると驚きですよ。ホームスチールなんてよくやったなって思います(笑)。

――ノーサインだったんですか?

谷 いや、スクイズのサインだったんですよ。で、バッターが空振りしたんです。空振りして、ピッチャーのボールも大きくそれたんで、ホームベースが空いたので「行ける!」と思って。普通なら絶対に止まるんですよ。今、振り返るとなんで行ったんだろうと思いますね(笑)。

――それだけ無我夢中だった。

谷 そうだったんでしょうね(笑)。ベンチに帰ると、みんなに「お前はすごい」って言われましたし(笑)。普通なら絶対に止まるので考えられないことしたなって。初安打とホームスチールは印象深いですね。

――それが初盗塁となり、02年には盗塁王に輝きました。

谷 なんかタイトルを取りたいと思っていたので、自分の持ち味を生かして取れるのは盗塁王かなと思っていました。だからうれしかったです。

――盗塁のスタートは、打席とはまた違った緊張があると思います。

谷 自分はけん制されるのが好きではなかったので、リードが小さかったし、サインも「自分で行っていい」でした。だから、すごく走りやすかったので、緊張はそこまでしなかったですね。だから走れたのかなと思っています。

――当時、タイトルを争っていたのは、松井稼選手(現・楽天)でした。

谷 ずいぶん競っていたんですよ。だから、どんだけ走らなアカンねんって感じでしたね(笑)。シーズン終盤は(松井稼の)盗塁数が気になりましたし、その辺では塁上でも緊張感を持ってやっていました。その緊張感も楽しんでいました

やり切った現役生活
今後は後輩の育成を


 大記録目前の引退で衝撃を与えたが「満足」と語る谷。昨季から二軍暮らしが続いたが、そもそもオリックス復帰は「恩返し」の意味合いも含んでいた。自身の練習だけでなく、二軍では後輩に声をかけ、アドバイスを送った日々――。今後は指導者を見据え、第二の野球人生をスタートさせようとしている。

10月3日の引退試合後はナインに拍手で迎えられ胴上げ。「あの試合は本当に皆さんに感謝しています」



――通算2000安打まで残りでの現役引退。会見で「惜しいとは思っていない」と語っていましたが、その思いは今も変わっていないですか?

谷 変わっていないですね。残り72本は代打だけでは難しい。あと1、2年はかかるなと思っていましたから。一軍にいて、あと30本とかだったら、来年もがんばろうと思っていたでしょうけど。そもそもプロで19年もやれると思っていなかったので。4、5年できればいい、レギュラーになれればいいと思っていたくらい。ケガもしましたけど、何とかここまでやってこられた。満足している部分もあるんです。

――やり切った思いが強い。

谷 そうですね。だから、これからは後輩たちに教えていかないといけない。自分の考えだけじゃなくて、人の意見も採り入れながら。人それぞれ打撃理論は違うと思うので、自分の理論で教えるのではなくて、その人に合った教え方をしないといけない。今度は、そういう悩みが増えてくると思いますね。

――いずれは指導者として現場復帰する思いがあるということですね。

谷 はい。プロ、アマチュア問わず。今までは自分のことばかり考えていましたが、これからは選手に応じて考えていきたい。プロだけではなくて、アマチュアも含めて。野球界の底上げに貢献したいと思っています。

――今季は二軍で武田健吾選手に指導する姿も見られました。

谷 教えましたね。バットが外から出るので、内から出すことをキャンプのときから言っていました。外から出ると変化球についていけないですし、キレのあるボールに対応できないですから。あとはスイングスピードが遅いから、速くなるよう教えました。今年は成長しきれなかったですけど、バットが内から出るようになったので、これから成長してくれると期待しています。

――指導する意識が芽生えたのは、いつごろからですか?

谷 巨人時代はなかったですね。オリックスに復帰したときからですかね。後輩への指導も含めて、「恩返し」と思って戻ってきたというのもあるので。だから教えていかないといけないなと思ってました。

――そんな谷さんの人望が表れていたのが引退試合でした。

谷 チームが盛り上げてくれて、僕のために勝つ、というのを肌で感じました。先発した西(勇輝)もすごい投球をしていて、ノーヒットノーランするんじゃないか、と思ったし、2番手で金子(千尋)も投げると聞いてビックリした。本当に感謝していますし、とてもうれしかったです。

――谷さんが指導者として現場復帰することをファンの皆さんは期待していると思います。最後にファンの皆さんにメッセージを。

谷 皆さんに支えられて、ここまでこられたと思っています。本当に声援が力に変わり、勇気をもらって打席に立てました。これからは、どういう形になるか分かりませんが、いずれは指導者として帰ってきたいと思っているので、そのときはまた応援していただければうれしいです。

谷佳知の“忘れじの出来事”


故・木村拓也氏の追悼試合での代打満塁弾は、打った瞬間に拳を上げて咆哮。気持ちを前面に出した一打はファンに感動を与えた



 皆さんもそうだと思いますけど、僕自身も2010年のキムタク(木村拓也・元巨人、広島)の追悼試合での代打満塁本塁打です。あの場面での緊張感は最高潮でした(笑)。「僕が打たないで誰が打つねん」って感じで打席に入っていました。打ったボールは外角高め。本来、あのコースを左中間に打つことは絶対ないんですけど、打ちたい気持ちが強く、思い切り引っ張ってしまったのかも。芯も外れて先っぽに当たったんですけど打った瞬間入ると確信しました。本当に打たせてもらったなと。キムタクが力を貸してくれた気がしますね。

PROFILE
たに・よしとも●1973年2月9日生まれ。大阪府出身。尽誠学園高から大商大を経て三菱自動車岡崎に入社。1997年ドラフト2位でオリックスに入団すると、1年目から外野の一角に。2年目から定位置を獲得し、俊足巧打で活躍。2006年オフにトレード移籍で巨人へ。勝負強い打撃で2度の日本一に貢献。14年、オリックスに復帰。2000安打まで残り72本としながら今年9月に現役引退を表明した。
惜別球人

惜別球人

惜しまれながらユニフォームを脱いだ選手へのインタビュー。入団から引退までの軌跡をたどる。

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング