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惜別球人2015
インタビュー・東野峻 11年間の現役生活を振り返る

 

5年前、巨人で開幕投手を任された右腕が静かにユニフォームを脱いだ。まだ働き盛りの29歳。11年間の現役生活はケガとの闘いでもあった。入団直後のどん底状態からスポットライトの輝く一軍のマウンドへ。それでも良い状態は長続きはしなかった。2016年は打撃投手を務める投手が太く、短いプロ生活を回顧する。
取材・構成=滝川和臣、写真=落合正、BBM

プロ入り直後の挫折。ケガを乗り越えた先に


 甲子園出場はなかったが、地元では注目を集める存在だった。驚きと歓喜が入り混じったドラフト当日の指名。しかし、あこがれのプロ野球生活は挫折からスタートとなった。



――11年間の現役生活を終えた今の気持ちは。

東野 やはり短かったですね。アッという間の11年でした。幸いにも引退してすぐに打撃投手というポジションをいただき、気持ちはすっきりしています。

――秋季キャンプで打撃投手の仕事をスタートしていますが、いかがですか。

東野 なかなか難しいです。これまではどうやって打者を抑えるのかを考えて投げていたのが、今はいかに気持ち良く打たせるのかが仕事ですから。慣れない部分もありますが、何とかやっています。

――出身は茨城の鉾田一高。高校当時からプロへの意識を持っていたのですか。

東野 関東大会には出場しましたが、甲子園への出場はありませんでした。でも、高校時代から誰しもあこがれるようにプロでやってみたいという思いは強かったです。高校はかつて甲子園の常連校で、何の迷いもなく選びました。鉾田一高は父親をはじめ家族全員の母校でもあり、野球部の監督さんは父親の同級生という環境でした。

鉾田一高では1年からベンチ入り。3年春にはエースとして関東大会8強に進出



――2005年ドラフト7巡目で巨人に入団します。

東野 正直に言って高校では成績を残せなかったし、プロは厳しいな、と思っていたんです。監督は「プロ志望届を出そう」と言ってくれていましたが、自分としては志望届を出しながら、別の道も考えていました。のちのち聞いた話では、監督は巨人のスカウトの方から指名する可能性が残っていることを聞かされていたようです。

――巨人への入団が決まったときは、うれしかったでしょうね。

東野 もう、とにかく驚きました。伝統のある球団で、幼いころから巨人ファンで、あこがれでしたから。

――しかし、入団してすぐに足首を手術。2年目には肩を故障してしまいます。結果が出ていない時期、サイドスロー転向の話もありました。

東野 入団から2年間、二軍で3試合しか投げられず、どん底でした。僕が入団した2年目から育成制度というものができて、入団からほとんど登板がなかったために育成契約の話が出ました。と同時に、サイドスロー転向の話もあったんです。「育成に行くか」「サイドにするか」という選択を迫られました。球団には「それなら横で投げます」と答えたすぐ後に、肩を壊してしまって……。それで「野球生活が最後になってもいいので、上から投げさせてください。ダメならやめます」と直訴して、無理を言ってオーバースローに戻しました。でも肩の痛みは全然引かなかったので、痛み止めの注射を打ちながらごまかしながらです。2年間、ほとんど投げていないわけで本当にいつクビになってもおかしくない状況でした。

――プロをあきらめて、教職の道を進むことも考えていたようですね。

東野 はい。もともとプロにかからなかったら、野球の指導者を目指して大学で教員の免許を取るつもりだったんです。

――それでもあきらずにプロでやることを決断した。

東野 当時のチームメートだった木佐貫(洋)さんからアドバイスをいただいたんです・・・

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惜しまれながらユニフォームを脱いだ選手へのインタビュー。入団から引退までの軌跡をたどる。

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