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2014ドラフト指名選手クローズアップ

中日育成2位 近藤弘基外野手 偉大な父の影を払拭

 

親子鷹の誕生に、中日ファンは期待に胸を躍らせたことだろう。強烈なインパクトを残した父に続いた近藤弘基だが、指名の裏には本人にしか分からない苦悩と挫折があった。
文=吉見淳司 写真=BBM

▲定評のある守備に加え、粘り強いバッティングも持ち味。松永監督は「重宝される選手になれる」と太鼓判を押す



 近藤弘基の実家には1本のビデオテープがある。そこに収められているのは1987年8月9日に行われた中日対巨人(ナゴヤ)の映像。マウンドには、父・真市(現中日投手コーチ)が立っていた。前年のドラフトで5球団が競合した期待の新人左腕はこの日がデビュー戦。しかしキレのある直球と大きく縦に割れるカーブで巨人打線を寄せ付けず、気が付けば無安打のまま9回に。最終回も2つの三塁ゴロと見逃し三振であっさりと片づけ、史上初となるデビュー戦でノーヒットノーランの偉業を達成した。

 幼いころにこの映像を見たときには漠然と「すごいな」としか思わなかった。しかし大学4年生となった今、その偉大さはいっそう重みを増して感じられる。なぜなら自分もまた、プロの世界に踏み出そうとしているからだ。

つらかった3年間


 近藤が野球を始めたのは旭丘小3年のころ。「物心のついたころから野球にしか興味がなかった」という弘基少年は、自然と投手を務めるようになり、旭中では軟式野球部で腕を磨いた。そして、父親の後を追うように、享栄高の門をたたいた。

「中学生のころは体が小さかったんです。ランニングメニューが嫌いで自分に甘い部分がありましたが、父と同じ高校に行ったら周りに見られる分、否応なしにやらなくちゃいけない。自分が変わるチャンスだと思いました」

 投手兼内野手として享栄高野球部に入部。「近藤ジュニア」と呼ばれるのは覚悟していたが、重圧は想像以上だった。

「当時は体重が60キロくらいしかなく、球速も父には敵わない。投げていて比べられるのがつらかったですね。どれだけ努力をしても、高校では父のような投手にはなれないと思いました」

 もともと地肩が強く、優れた打球勘を持っていたこともあり、2年時に外野手に転向。最上級生になってレギュラーに定着したが、周囲の注目は変わらなかった。活躍しようとしまいと、試合後にはインタビューを求められる。「それをバネに『結果を出してやろう』と思えれば良かったんですけど、自分の実力に自信を持てず、悪循環になってしまった」。3年夏も初戦の2回戦で敗退。甲子園出場はかなわず、プロ志望届提出を考えることもなかった。

 進学した名城大では、入部早々に好感触を得た。冬の筋トレで体重アップに成功。木製バットも手になじみ、高校時よりも打球が飛んだ。そして何よりも、父親が経験したことのない大学野球に身を置いたことが大きかった。

「父は高校からプロに進んだので、やっと注目される環境から逃れられると思いました。僕は外野手なのでポジションもまったく違うし、『ここで伸び伸びやれるんだ』という気持ちでしたね」

 1年時からときおり試合に起用され、順調なスタートに見えた。だが、再び挫折が待ち受けていた。

父の影を振り払う


 大学生となり車を運転するようになると、いろいろな誘惑も増える。2年時のある日、授業をさぼっているところを松永健二監督に見つかった。「気持ちを変えます」。そう言った3日後に、再び遊び歩いていることがばれた。

「自分が悪いんですけど、そのときは『何で自分だけ言われなくちゃいけないんだ』と思ってしまったんです」

 練習参加を許されず、ボール磨きなどの雑用を命じられた。グラウンドで白球を追いかけるチームメートを見ていると、たまらなく練習がしたくなる。ふと思い立ち、享栄高に出向いて関係者に相談した。

「話をすると、ほとんどの方に『それはお前に期待しているから、叱ってくれたんじゃないか』と言われました」

 グラウンド外から見ていると、普段は気付かなかった松永監督の行動や、意図が理解できるようになった。しばらく経ち、時間を作ってもらって2人でじっくりと話し込んだ。大学野球とは、学生野球とは何か。

「いずれはチームの中心選手になってほしいと思っていた選手。いいタイミングでヒザを突き合わせて話すことができました」(松永監督)

 ひょっとすると、「近藤真市の息子」と注目され続けてきたことへの反動だったのかもしれない。だが、この経験を機に意識はがらりと変わった。

「『これじゃダメだ』と気付くことができました。練習を本当に真剣にやるようになりましたし、当たり前のことですが生活リズムも一定にしました。睡眠時間をしっかり作り、食事も1日6食、7食に増やして体を大きくしたら打球も飛ぶようになりました」

 野球への姿勢の変化は、プレーにも現れた。3年生となり迎えたキャンプでの特守中に、バットがボールをとらえた瞬間に打球の落下地点を予測できるようになった。

 それまでは自分の動きにしか目が行っていなかったが、自軍の投手の配球や球質、相手打者の狙いを考えるようになり、次に何が起こるのかをイメージすることで、天性の守備勘にさらに磨きがかかったのだ。

「絶対にベストナインになる」。強い気持ちで臨んだ3年春のリーグ戦では打率.324をマークしてベストナインを獲得。さらに「警戒される中で、2季連続で取ることに意味があると思った」と意気込んで臨んだ秋にも、打率.333で再び同賞を受賞。その才能を大きく花開かせた。

 主将として臨んだ4年春は自己最高の打率.364で敢闘賞に輝き、愛知大学野球連盟を代表する外野手に成長。秋こそ同.191と苦しんだものの、好守備でチームを救った。

「模範となる選手になってくれました。彼がどれだけ調子を落としても私は使い続けますし、周りからも批判する声は上がらない。本人の中には『近藤ジュニア』と言われるに見合った実力じゃない、という意識があったかもしれませんが、それを大学の後半2年間で払しょくした。本人の努力が実ったものだと思います」(松永監督)

 迎えた10月23日、中日からの指名は育成ドラフト4位で、時計は午後8時を回っていた。それでも、清水昭信スカウトからの朗報を受け取ると、安どよりもうれしさが上回った。

「ドラ1で入った選手でもケガをしてしまったらダメですし、育成で入った選手にも可能性はある。自分がどこまでやれるかだと思うので、しっかり自覚と責任を持ちながらやっていきたい」

 父親も喜んでくれたが、「今まで以上に厳しい環境の中でやるし、周りの目も厳しくなる。覚悟を持ってしっかりやれよ」と檄をもらったという。

「今まで味わったことのないプレッシャーもあると思います。練習に取り組む姿勢や、私生活もどこかで誰かが見ていると思いますが、自分がどれだけ一生懸命に野球に取り組むことができるかが大事。そこができないことには結果も出ないですから」

 注目に押しつぶされた昔とは違う。“近藤弘基”として思う存分に躍動し、まずは支配下登録を勝ち取っていく。

▲86人が所属する名城大野球部を束ねるキャプテンシーも魅力。「人の上に立つには、人一倍の努力をしないといけない」と自覚も十分[写真手前が近藤]



PROFILE
こんどう・ひろき●1993年2月12日生まれ。愛知県出身。179cm 79kg。右投右打。旭丘小3年時に旭丘ファイターズで野球を始め、旭中では軟式野球部に所属。享栄高入学時は投手謙内野手だったが、2年時から外野手に転向。甲子園出場はなく、名城大に進学。3年時から主力となり、春秋連続でベストナインを受賞。4年春には敢闘賞に輝く。動き出しが早く、範囲の広い外野守備が持ち味で、50メートル走は6秒1。遠投は120メートルを誇る。父・真市は元中日の投手で、現在も同球団で投手コーチを務めている。

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